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旅した期間は1257日
2016年2月14日に帰国!
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ケンゾー   イクエ


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アウシュビッツ収容所 殺すシステム

2014.02.25 06:22|ポーランド☞EDIT
リアルタイムではたくさんのユダヤ人が住むイスラエルにいるイクエです。
イスラエルが行なっているパレスチナ人への迫害のひどさも実感しています。

そんななか、きょうは70年前に逆にユダヤ人が受けた迫害についてお伝えします。

「アウシュビッツ強制収容所」

悪名高いナチスの強制収容所。
ナチスと言えばドイツを思い浮かべ、アウシュビッツ収容所もドイツにあったように思う人もいるかもしれない。
だけど、アウシュビッツはポーランドのクラクフからバスで1時間半ほどの田舎の村にある。
ドイツ語ではアウシュビッツ、現地の呼び名はオシフィエンチム。

アウシュビッツ

収容所にふさわしい場所は、そこで行なわれる残忍な実態を悟られないような、社会から断絶されている場所。
何万人ものユダヤ人を収容できる広大な土地。

ひっそりとしていて暗い影を落としているこの場所。
雪が吹きつけ、氷点下のこの時期はさらに物悲しさを感じる。

こんな時期にここを訪れる人なんてそうそういないんじゃないか。
そう思って来てみたら、駐車場にはたくさんの大型バス。

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入口は人であふれていた。
それでもほかの季節に比べれば少ないのだそう。
あたたかい時期は、駐車場は大型バスで埋め尽くされ見学にも列ができる。

驚くことに、ここを訪れる人たちは年々増えているのだという。
ヨーロッパでは歴史を学ぶうえでここがもっとも大切な場所と位置づけられ、訪れるべきだと推奨されている。

ナチスのホロコーストから70年。
時間が経てば経つほど忘れ去られるのではなく、時間が経つからこそ忘れないようにいましめる。
過去を振り返ることを大事にするヨーロッパを、日本も見習わないといけない。

アウシュビッツ収容所は二度と同じ過ちを起こさないために、過去を学ぶ場所として世界遺産に認定されている。
当時の建物が残され、建物内部は歴史を伝える博物館となっている。
維持や運営に莫大な費用がかかるようだけど、入場は無料。
その点にも感心する。

各言語で案内してくれる有料のガイドさんたちがいる。

「より深く知るためにはガイドツアーに参加したほうがいい。」
そんな情報もあったし、入場が無料なのでその分お金を払うのもいいと思って迷わず参加することにした。

日本語ガイドは中谷さん。
ガイド料は250ズウォティ(8500円)で、参加者で割り勘するというシステム。
この日集まったのは、わたしたち以外に3人だった。
ガイド料は中谷さんに直接支払うのではなく、窓口で支払う。
このガイド料もアウシュビッツの運営維持費に使われている。

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メガネの男性が中谷さん。
もう長いことポーランドに住んでおられる。
ポーランドが社会主義から民主主義になったのは1989年。
そのころにやってきて、混沌と希望で満ちていた時代を見つめてきたという。
現在、アウシュビッツの公認の日本語ガイドは中谷さんだけ。

「お忙しいですよね。
後任の人はいないんですか。」
「ええ、残念ながら。
私自身、この仕事をいつまでやるかはわかりません。
外国でこんな風にガイドをやるよりも、平和のために貢献できる仕事を自国の日本でやるべきじゃないか。
日本でも過去の歴史を振り返ったり平和について考えなければならない。
だけどそのいっぽうで、外国で日本の方をご案内し外から平和について見つめてもらう、そういうのも必要じゃないかとも思うんです。」
 

敷地内に入り、最初に目に入ってくるのはこのゲート。
これまで幾度となく写真で見てきた。

ARBEIT MACHT FREI
「働けば自由になる」

そう書かれている文字は、踊っているようでふざけているようで、そらぞらしい。

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Bという字が逆さまになっている。
これはこの看板を作らされた囚人の、せめてもの抵抗だったとも言われている。

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でもほんとうのところはわからない。
彼らはどんなに働いても自由になれなかったのだから。
働かされて待っていたのは、死。

ここに収容された人たちは130万人。
90パーセントがユダヤ人で、そのほかロマ(ジプシー)や各国の政治犯も収容されていた。

収容所にあるコンクリートの壁。
別名「死の壁」。
ここで2000人から3000人が銃殺された。

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現在でも死刑は行なわれているものの、世界的に見れば死刑制度を撤廃している国のほうが多い。
「どんな理由があれ、人を殺すことは人道に反している」「無実の罪をきせられて殺される、えん罪の危険性」「死刑が乱用されると国家の思うままに人を殺すことにつながってしまう」
そんな理由からだ。
死刑を行なっている日本でさえ、最高裁まで時間をかけて慎重に審議され執行される。
そんな日本でも、死刑の是非が論じられている。

でも、ここはそんなレベルではない。
いとも簡単に銃殺。
そしてそれが正当化されていた。

どんな罪があったのか。
それが正しかったのか。
もはやそういうのはどうでもいいこととされた。

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3000人近くが銃殺されたけれど、それよりももっと多くの罪のない人たちがガス室で殺されている。

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アウシュビッツに収容された130万人のうち110万人が命を奪われたといわれている。
でも正確な数はわからない。
骨を砕いてまき、証拠が隠された。

遺灰で作られたオブジェがあった。
中の遺灰はだれのものかもわからない。

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「囚人」とか「収容された人たち」なんてひとくくりで表現されるけれど、でもその130万人の人たちにはたしかに名前があってそれぞれの人生があって、それぞれの愛する人たちがいて・・・。
だけどここに収容されたらそんな個々の生は切り捨てられる。
「囚人」としか見なされなくなる。

自分の人生を生きていた人たち。
わたしたちと何の違いもなく、暮らしていた人たち。
しかし突然「囚人」にされた。

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こんなふうに縞模様の囚人服を着せられ、犯罪者のように写真を撮られる。
そうすることでここで働くドイツ人たちにとって、まるで収容する彼らが自由を奪ってもいい犯罪者のように思えてくるのだ。

どうしてこんな残忍なことができたのか。
どうしてほかの人たちに反発されることもなく、110万人もの人たちを殺せたのか。
現在に生きるわたしたちはそんな疑問をもつ。

でも、その大量殺人が、まるで工場の流れ作業のようにシステマティックに行なわれていたとしたらー。

ユダヤ人たちはここで殺されるなんて知らずに連れてこられた。

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「ユダヤ人たちのために新しい住む場所を用意した。
 持っていける荷物はひとりにつきカバンひとつ。
 あとでわかるように名前と住所をカバンに書いておくように。」

突然そう言われたユダヤ人たちは、最低限必要なものを決めてカバンに詰め込んで。
そのなかには、日常生活に必要なもの以外に写真や思い出の物、手放せない宝物もきっとあっただろう。
大切な物だから、人のカバンと間違われないようにしっかり名前を書いて。
「この先なにが待っているかわからないけど、新天地で今よりもマシな生活が待っているかもしれない。」

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だけどそのカバンがユダヤ人たちの手に戻ってくることはなかった。
最初からカバンを持ち主に返すつもりなんてなかった。

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カバンを持たせたのは、暴動が起きないようスムーズに移送できるようにするため。

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そして切符まで作って買わせていた。
切符にスタンプまで押して。

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着いた途端に選別される。
そのままガス室に送るか、少しの間生き延びさせるか。

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医者が体つきを見ながら判断する。
労働力になるか、なんの価値もない人間か。

「あんたはこっち、あんたはあっち。」
医者が動かす指でその人の人生が決まった。

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14歳以下の子どもは労働力にはならないと判断され、母親とともにガス室に送られた。

到着してすぐにガス室送り、つまり殺された人は、75パーセントから80パーセントにものぼる。

ガス室で使われたのは、害虫駆除のチクロンB。
1缶で150人を殺すことができる劇薬だった。

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この劇薬を納入した会社は「害虫駆除のためのもの。人を殺すのに使われるとは思わなかった。」と責任逃れができる。

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「今からみなさんはシャワーを浴びます。」
そう嘘をついてガス室に誘導するのも、ユダヤ人の仕事だった。

ユダヤ人が苦しむところをドイツ人には見せないシステムがつくられていた。
ドイツ人に良心の呵責を感じさせないですんだ。

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そこに本当のシャワーはなかった。
暗い部屋に閉じ込められ、放り込まれるチクロンB。

多くの人たちが押し込められたガス室。 
数十分後、そこにいたすべての人たちはもうこの世にはいない。
ガス室に残されたのは遺体だけ。

その遺体をひきずって運ぶのもまたユダヤ人の仕事だった。
「自分たちはこんなふうになりたくない。」
そう思わせることで、ますますドイツ人看守の言いなりにさせることができた。

ガス室のすぐ隣には焼却炉。
2、3人の遺体を押し込んで焼いていた。

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目の前にある焼却炉。
人を焼くためのものだとは想像できない。
無機質でただ並んでいる焼却炉を見ていると、工場の一部屋を見ている錯覚になる。

当時はこんなふうにたくさんの焼却炉が備え付けられたところもあった。

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整然と並ぶ焼却炉は、まるで短時間で機械的に何かを処理していく工場。

その何かは、人間の遺体。

アウシュビッツは殺人工場とも呼ばれている。
まさしく工場のように「効率的に」「大量に」「流れ作業で」人を殺していた。

命の重みを感じる。
他人の人生を想像する。
どうしようもない罪悪感を感じる。

この殺人工場にそんな感情が入る余地なんてない。

多いときで一日に数千人の人が殺された。
焼却炉での「処分」が間に合わず、外で焼かれることもあった。

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もちろん遺体を焼いているのはユダヤ人たち。
命じられるがまま、同胞の遺体を焼くしかなかった。
きっと家族や知り合いの遺体を目にすることもあったと思う。

自分もこうなる運命になることを感じながら、絶望の中で遺体を焼かされていた。

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この写真は収容された人が隠れて撮ったもの。
命がけで撮影し、どうにかして外に流出させて訴えようと思ったのだろう。

殺された110万人もの人たち。
あまりの数の多さにその人たちそれぞれの生を想像することが難しい。
けれど、その人たちの生きてきた証、無念の思いがこころにずーんと伝わってくる場所がここにはある。

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山積みにされた靴。
かわいらしい子どもの靴、赤い女性の靴、男性の革靴。

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こんなものもある。

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犠牲者の義足や松葉杖。
障がいがある人はまっさきにガス室送りとなった。

中谷さんが言った。
「この人たちを『殺す』のではなく『生まれてきて不憫だから安楽死させてやる』。
そんなふうにして殺すことを正当化させていたんです。」


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人を殺すということ。
それに精神的な負担をかけずに、合理化させる。
それはとても恐ろしいことだけど、現実にこんなふうに簡単に人が人を殺していたのだ。

アウシュビッツにはほかにも山積みのメガネや髪の毛もある。
わざわざ髪の毛まで剃ったのはなぜか。
その髪の毛は、絨毯やソックスの材料にされて外で販売された。

髪の毛だけではない。
金歯も抜かれ、それを溶かして金の延べ棒にして売られた。

中谷さんが続ける。
「そんな金の延べ棒がヨーロッパの銀行で販売された。
 まわりまわって今も日本の銀行にあるかもしれないのです。」


展示されている一枚の資料。
ゴールド、シルバーと書かれた横に数字。

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「金歯 ◯◯人分」ではなく「ゴールド ◯◯」。
ほかの商取引と変わらないような書き方。

中谷さんが言った。
「金歯と書かずにあえて『ゴールド』と記す。
感じ方にだいぶ差があると思いませんか。
全部数字にすり替えていくことで、人間の生を感じずにすむ。
この虐殺に関わる人たちが、精神的な負担を感じずにすむような仕組みになっている。
精神的な負担のかかることはユダヤ人にさせていた。
ユダヤ人を捕まえさせるのもユダヤ人にさせていた。」


「これも囚人の部屋です。」

そう言われて案内された部屋は、ベッドやテーブル、棚まである個室だった。
囚人の部屋とは想像しにくいけど、掛けてある縞模様の囚人服がそれを物語っている。
囚人のなかでも、監視係を任された人たちの部屋。

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こんなふうに囚人の監視係は部屋や食事面で優遇された。
囚人が囚人を監視し、階級をつくった。
アウシュビッツでは平均2〜3か月しか生きられないなか、監視係たちの生き延びる確率は高かったそうだ。

その後案内された普通の囚人たちの部屋。
家畜小屋も同然だった。

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この一段に4人から5人が寝ていた。

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こんな残虐な場所が行なわれていたすぐ横には、幸せな家族の日常があった。
アウシュビッツの所長だったルドルフ・ヘス。
家族5人と妻と収容所の目の前で暮らしていた。

右の建物が収容所で、左の建物がヘスの家。

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子どもたちといっしょに朝ごはんを食べ、妻から「いってらしゃい」と見送られる。
囚人の脱走防止のための高電圧の流れた有刺鉄線を越えて収容所の中へと出勤する。

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そこにはうつろな目をしたやせ細った2万人が収容されている。
きょうもまた、新しい囚人が列車で運ばれてくる。
そのなかには自分の子どもと同じ年齢の怯えた顔の子どもたちもいる。

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そしてまた、きのうと同じように数千人がガス室で殺される。
夕方になると温かい家庭に戻り、良き父親として子どもたちを優しい目で見守る。
みんなで食卓を囲み、子どもの寝顔を見届けて一日を終える。

そんな奇妙な生活ができたのは、彼が特別だったからだろうか。

もし、自分が彼の立場だったらー。
そして大量殺人という残忍な行為がシステマティックに行なわれ、加担する側には精神的負担がほとんどかからないような仕組みになっていたとしたらー。

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戦後ヘスは裁判にかけられこのアウシュビッツ収容所の絞首台で処刑された。
処刑される前にヘスは手記でこう記している。

私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。
世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。
けだし大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。
彼らは決して理解しないだろう。
その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。
彼もまた悪人ではなかったということを。


ヘスは絞首台に立ってもなお、反省も謝罪の言葉も残さなかったそうだ。

虐殺機械の一つの歯車にされそうになったとき、それにあらがい、自分が正しいと思う道を貫くにはいったいどうすればいいのだろうか。

次回もアウシュビッツについてです。
すぐ近くのビルケナウ収容所についても紹介し、この問題をもう少し考えたいと思います。

極寒のポーランド せっかくの鍋料理が!

2014.02.23 06:20|ポーランド☞EDIT
毎日豆料理の食べすぎでおならが止まらないイクエです。
ちなみにケンゾーも止まりません。

イクエとケンゾーのヨーロッパの旅。
つぎに目指すはポーランド。

オーストリアのウィーンからバスでチェコに戻り、電車に乗り換えて、チェコとポーランドの国境の街を目指す。

チェスキーテシン

ことしのヨーロッパは暖冬と言われていた。
だけど、前日からいっきに例年の寒さになった。

4日ぶりのチェコ。
この前とは違って雪が降っていて、さっむーい。

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ホームは寒いけど、チェコの列車はきれいで快適。
乗り換えの待ち時間も含めて、ウィーンからチェコの東のチェスキー・テシンまで6時間弱。

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チェスキー・テシンは国境の街ということ以外には特に何もない街。
というか田舎。
なかなかツーリスト用の安宿がないんだけど、いいホテルを見つけた。
駅前のhotel piast
ダブルルームは850コルナ(約4400円)するんだけど、バストイレなしだと半額以下の400コルナ(約2100円)で泊まれる(シングルは300コルナ)。
ホテルの規模は大きいけど、薄暗く寂れていて昔の旧ソ連の中級ホテルって感じ。

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駅から近いし立地は言うことなし。
しかもポーランドとの国境まで歩いていける。

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チェコとポーランドを分つのは、このオルシェ川。
もちろんここでもパスポートのチェックもなければ警備している人さえいない。
住民も買い物袋をさげて出たり入ったり。
なので別の国に入るという実感が全然わかない。

橋の手前のチェコ側の街は「TESIN テシン」
ポーランド側の街は「CIESZYN チェシン」

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最寄りのバスターミナルまで2キロほど歩く。
着いたバスターミナルは、思いのほかこじんまりしている。
しかもバスと言ったって、ワゴンくらいの大きさ。
この車で世界遺産の街クラクフを目指す。

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およそ3時間、運賃は20ズウォティ(約690円)でクラクフの街に到着 ♪
やけに角張ったトラムを横目で見ながら、予約しているゲストハウスへこれまた歩いて移動。

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BENEDICT HOSTEL
ドミトリーでひとり5.3ユーロ。
ポーランドはお隣のチェコに比べると物価は安くなる。
広い共同キッチンもあるし、ちゃんとしたゲストハウス。

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でも、こんなドミトリー初めて見たよ!
後に入ってきた欧米人の女の子2人組も「3段!?」って驚いて笑ってたもん。

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いかに狭いスペースに客を詰め込むか。
その結果行き着いたのがこの3段ベッドだったんだろうね。
もちろん特注だよね。

こんなゲストハウスでも大人気だった。
予約を2泊分しかしてなかったから延泊を申し込んだらいっぱいで断られた。
ということで、3泊目は近くのHostel Faustってところに移動。

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ダブルで1泊1600円くらいでとてもきれいなホテルだったよ。

ポーランドは寒い!!
寒いときは何を食べたいか。
鍋でしょ!

ということで宿の共同キッチンを使って、鍋料理をつくることにした。
スーパーでネギやキャベツを買って冷凍餃子みたいなものを見つけたからそれを入れて。
スープのベースはお正月に家族にもってきてもらった「あごだし」。
宿にあった醤油で酢醤油を作ってつけて食べると、おいしいに決まってるよね!

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「おお〜!
 おいしそうな匂い。」

「この冷凍餃子の中身はひき肉かなあ。」
「ん?
 なんこれ?
 餃子から紫のものが・・・」


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まさかの・・・。

ブルーベリー!!

これ餃子じゃなくて、デザート系のヤツやん!!!

この失望感と言ったら・・・。

鍋からは熱々の湯気。
おいしそうなだしの匂い。
ネギを酢醤油につけて食べると「うわあ〜、おいしい!この味この味」って感動。
で、餃子を酢醤油につけて食べると、口に入れた瞬間はいい。
だけどかんだ途端ジュワッとブルーベリーの甘酸っぱい味にいっきに占領される。

この違和感、このがっかり感わかる?

この餃子みたいな小憎らしいやつの正体は、ポーランドの名物料理ピエロギ
中身はひき肉やポテト、チーズなんかもあれば、デザート系のフルーツ入りもある。
しかるべき調理法で食べたらきっとおいしいとは思うんだけど、大失敗だよ。

中身がブルーベリーだけでジャム系じゃなかったからまだマシ。
砂糖も入ってなかったから、なんとか食べきったよ。
ずっと違和感を感じながら。

次の日は雪化粧したクラクフの街歩き。
降ってくる雪は、結晶のかたちそのまま。

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寒さに弱いケンゾーは、背中をまるめて、風が吹くたびにしかめっ面になる。
でもイクエは真っ白なこの世界にちょっとテンションが上がる。

雪合戦に興じる楽しげな子どもたち。
ほほえましい♡

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我が子をソリにのせて、引っ張って歩く親たち。
一家に一台はあるんだろうな。

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ちょっとでも斜面があれば、そこはもう遊び場。
まるで滑り台で遊ぶかのように、慣れた感じで子どもたちはソリ滑り。

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クラクフの街を流れる幅の広いヴィスワ川。
なんかちょっと、川の様子が変じゃない?

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凍ってる!
一部分だけじゃなくて、見えるところ全部凍ってる。
池や湖ならわかるけど、流れのある川が凍るってよっぽどだよね。

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普段はプカプカ浮かんだり、水の上をスイスイ進んでいく鴨さんも、きょうはペタペタ。

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足が氷にへばりついて、離れなくなるってことはないのかな。

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言われなくてもこんなところでは泳げません。

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白いクラクフの街を歩いてたどり着いたところがここ。
昔、オスカー・シンドラーという人が経営していた食器工場。

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オスカー・シンドラー。
聞いたことがあるような名前。

そう、あの『シンドラーのリスト』のシンドラー。
実は『シンドラーのリスト』の舞台はここクラクフ。

当時クラクフにはたくさんのユダヤ人が住んでいて、ナチスから迫害・虐殺されていた。
かつての工場は今ではポーランドの近現代史、ナチスによるユダヤ人の迫害を伝える博物館になっている。

シンドラーの執務室も再現してある。

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奥にあるのは工場で作られていた食器類。
机にはシンドラーの写真。

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彼は1200人の命を救ったと言われている。

信じられないほど残虐なことをするのも人間だけど、命の重みを知っていてその命をつなぎとめることができるのもまた人間。

イクエとケンゾーにとって、ここポーランドは訪れなければいけないと思っていた国。
ポーランドに来た一番の目的。
それは、残虐な出来事が刻まれた「アウシュビッツ強制収容所」に行くことだった。