「償いの家」に住むおじさん
鼻の頭の皮がむけてきたイクエです。
アフリカの太陽の強さをなめていた。
腕が真っ黒で、この前出会った日本人の旅人に「カンボジア人より黒い」と言われました。
ケンゾーは「エクアドル人並み」だそうです。
20年前にルワンダで起きた虐殺。
虐殺に加担した加害者と、家族を殺された被害者。
加害者と被害者が協力しながら活動する養豚場を見せてもらった。
そこは、お互いに心を通わせ和解を目指す場所。
そこで活動している人たちは穏やかな微笑みを浮かべ、いきいきとしていた。
「虐殺のお話を聞くこともできますよ。」
案内してくれていた協力隊のやすこちゃんが言った。
わたしとケンゾーはそんな機会をずっと待っていた。
虐殺から20年経ったとは言え、傷は深く、気軽に話題にあげることはできない。
ルワンダに来てから虐殺記念館を訪ね、パネル展示や被害者の頭蓋骨、石灰を塗られたおびただしい数の遺体、山積みにされた被害者の衣服を見てきた。
けれど、そのときのことを知る人々と直接向き合い深い話を聞くことはできずにいた。
もどかしいけど、それができないのが事実だった。
養豚場で活動する人たちは過酷なできごとを経験しているけれど、何度もNGOのセミナーを受け、過去と向き合い、相手を受け入れ、お互い前向きに生きていこうとしている人たち。
虐殺の話をほかの人にする機会も多く、わたしたちが聞きたいことを話してもらえるようだった。
「すぐそばにご自宅があるのでそちらで話をうかがいましょう。」
おじさんとやすこちゃんのあとをついていく。
わたしも小柄だけど、やすこちゃんも背は小さい。
おじさんの背の高さが際立つ。

「とっても背が高いですね。」
そう言うと、おじさんはとても嬉しそうな顔をした。
だけど、こんな大男で強そうな人が足を引きずって歩いている。
今でこそおじさんは初老の男性だけれど、虐殺が起きた20年前は今よりももっと恰幅がよくて力強かったはず。
そんなおじさんが襲われたことに違和感を感じる。
そのいっぽう、誰もが被害者になるのだという事実を改めて実感した。
おじさんの住む家は養豚場からすぐのところだった。
虐殺の加害者が被害者のために建てた「償いの家」。

虐殺の加害者たちが毎日ここに通い、汗を流しながら日干しレンガを積み上げてこの家を造る姿をおじさんは見つめてきた。
加害者が罪をつぐなっている姿を見つめてきたのだった。
わたしたちは家の外の日陰に腰かけて、おじさんから話をうかがうことにした。
もちろんおじさんは英語を話せない。
現地語の話せるやすこちゃんに通訳をお願いする。

わたしはいつも説明を聞くとき必ずメモをとる。
正確なことをブログに書きたいし、内容を忘れたくないから。
でも、わたしはこのときメモを出さなかった。
せっかく貴重な話を聞いたのにメモをとればよかったと今では後悔しているけど、このときはそうすることを選ばなかった。
これは記者時代も同じで、遺族や被害者から話を聞くときはわたしはあまりメモを取らないようにしてきた。
こころのなかで葛藤しながらつらいできごとを話している相手に対してちゃんと目を見て話を聞きたい。
それに「取材者」と「取材相手」という雰囲気を出したくない。
一対一の人間として会話をするのに、メモを取るという行為はふさわしくないような気もしていたから。
メモを取っていないから、おじさんから聞いたことをここで詳細に書くことができないけど、わたしたちは2時間近くお話をうかがい、とても貴重な時間を過ごすことができた。
わたしとケンゾーにとっておじさんの話はこころに深く響いて、ルワンダでわたしたちがずっと抱えていたモヤモヤを解きほどいてくれるものだった。

「虐殺のときはどこに住んでいらっしゃったんですか。」
「ここの近くだよ。
たくさんの人たちが殺された。」
「足もそのときにやられたものなんですよね。
当時のことを聞いてもいいですか。」
「いきなりフツ族の男たちがうちに押し掛けてきたんだ。
怒鳴っていたし武器も持っていた。
こっちに抵抗する余裕なんてない。」
「押し掛けた人たちの中には顔見知りの人もいたのですか。」
「ああ。
わたしも含め男たちは村の一か所に集められた。
そこで殴られたり切られたり。
殺された人もたくさんいた。
わたしも頭を切られて、胸を何度も何度も叩かれた。」

頭に傷を受け、何度も圧迫された心臓の部分は今もときおり傷むという。
足にも金具を入れていて、足が完治することは一生ない。

「そんななか命をとりとめたんですね。」
「襲われて歩けなくなっていたし、わたしは倒れていた。
血も出ていたから、相手はわたしが死んだと思ったのだろう。
実際にまわりには殺された人もたくさんいたから。
しばらくしたらルワンダ愛国戦線の部隊がやってきてわたしたちを襲っていたやつらは逃げていった。」
「ご家族は?」
「わたしが連れ去られたとき、妻はほかの女性たちとともに別の場所に連れて行かれてしまった。
そこで殺された。」
「ご遺体は見つかりましたか?」
「いや、見つからない。」

ルワンダの虐殺は、それまで共存していたフツ族とツチ族がお互いに不信感を抱き、殺害に発展していった。
とはいえ、実は「フツ族」と「ツチ族」という民族の分け方はあいまいで言葉や宗教が違うわけではない。
はっきりと区別されないなか、判断手段は農耕民族か牧畜民族か。
畑を耕して暮らしていた人がフツ、家畜を飼って暮らしていた人がツチとされた。
第一次大戦後、ルワンダはベルギーによって支配された。
ベルギーは統治しやすいように行政のトップをツチに独占させ、教育面でもツチを優遇するようになった。
さらにツチかフツかを表示した身分証を発行したことで、それまで違いがあいまいだったフツとツチがはっきり区別されるようになった。
その後、逆にフツが優遇されるようになったりと両者の立場は逆転しながら、お互いへの反感が生まれていくようになっていった。
首都のキガリの虐殺記念館には、これまで世界で行なわれてきた虐殺について紹介しているパネルも展示されていた。
ナチスによるユダヤ人迫害、ユーゴ紛争のときの民族同士の殺し合い、カンボジアのポルポト派による虐殺。
でも、ルワンダの虐殺はほかの虐殺とはまったく違う。
宗教や文化の違いがないフツとツチがなぜ対立し、殺し合い、そして虐殺事件を経て共存するようになったのかがわたしは理解できなかった。

「虐殺が起きる前はこの村ではツチとかフツとか誰も意識することなく暮らしていたんだよ。」
「じゃあどうやってツチかどうかが判断されたんですか。」
「虐殺前、身分証を調べにくる者がいてそのときにどの家の者がツチなのかリストを作っていったんだ。
でも、とてもあいまいで飼っている牛の数で判断された人もいた。
身分証の表記はフツでもたくさんの牛を飼っていればツチとされた。
そしてフツであっても、ツチと結婚していればツチと同一視された。」
「それまではフツかツチかなんて意識せずに仲良く暮らしていたんですよね。
突然虐殺が起きたんですか?
それともその前から不穏な空気が流れていたんですか?」
「虐殺が起きる1年ぐらい前かな。
ツチが飼っている牛が奪われたり、勝手に家に入られて物を横取りしていくようなことが起きていった。
わたしたちも飼っていた牛をそのときに奪われたんだ。
反発しても聞き入れてもらえない。
人のものを勝手に奪っていくので法に触れているのに、奪った者たちは罪にとらわれない。」
その当時ルワンダは経済的に厳しい状況に置かれていた。
失業率も高かった。
ルワンダで家畜をもっているというのは財産をもっているということ。
一般の人たちが虐殺に手を染めていったのはツチに対する妬みにも似た感情があったからかもしれない。
なぜ民族の違いなんて意識することなく共存してきた人たちが、突然あんな虐殺をすることになったのか。
おじさんの話からわたしたちはその経緯がわかってきた。
アフリカの太陽の強さをなめていた。
腕が真っ黒で、この前出会った日本人の旅人に「カンボジア人より黒い」と言われました。
ケンゾーは「エクアドル人並み」だそうです。
20年前にルワンダで起きた虐殺。
虐殺に加担した加害者と、家族を殺された被害者。
加害者と被害者が協力しながら活動する養豚場を見せてもらった。
そこは、お互いに心を通わせ和解を目指す場所。
そこで活動している人たちは穏やかな微笑みを浮かべ、いきいきとしていた。
「虐殺のお話を聞くこともできますよ。」
案内してくれていた協力隊のやすこちゃんが言った。
わたしとケンゾーはそんな機会をずっと待っていた。
虐殺から20年経ったとは言え、傷は深く、気軽に話題にあげることはできない。
ルワンダに来てから虐殺記念館を訪ね、パネル展示や被害者の頭蓋骨、石灰を塗られたおびただしい数の遺体、山積みにされた被害者の衣服を見てきた。
けれど、そのときのことを知る人々と直接向き合い深い話を聞くことはできずにいた。
もどかしいけど、それができないのが事実だった。
養豚場で活動する人たちは過酷なできごとを経験しているけれど、何度もNGOのセミナーを受け、過去と向き合い、相手を受け入れ、お互い前向きに生きていこうとしている人たち。
虐殺の話をほかの人にする機会も多く、わたしたちが聞きたいことを話してもらえるようだった。
「すぐそばにご自宅があるのでそちらで話をうかがいましょう。」
おじさんとやすこちゃんのあとをついていく。
わたしも小柄だけど、やすこちゃんも背は小さい。
おじさんの背の高さが際立つ。

「とっても背が高いですね。」
そう言うと、おじさんはとても嬉しそうな顔をした。
だけど、こんな大男で強そうな人が足を引きずって歩いている。
今でこそおじさんは初老の男性だけれど、虐殺が起きた20年前は今よりももっと恰幅がよくて力強かったはず。
そんなおじさんが襲われたことに違和感を感じる。
そのいっぽう、誰もが被害者になるのだという事実を改めて実感した。
おじさんの住む家は養豚場からすぐのところだった。
虐殺の加害者が被害者のために建てた「償いの家」。

虐殺の加害者たちが毎日ここに通い、汗を流しながら日干しレンガを積み上げてこの家を造る姿をおじさんは見つめてきた。
加害者が罪をつぐなっている姿を見つめてきたのだった。
わたしたちは家の外の日陰に腰かけて、おじさんから話をうかがうことにした。
もちろんおじさんは英語を話せない。
現地語の話せるやすこちゃんに通訳をお願いする。

わたしはいつも説明を聞くとき必ずメモをとる。
正確なことをブログに書きたいし、内容を忘れたくないから。
でも、わたしはこのときメモを出さなかった。
せっかく貴重な話を聞いたのにメモをとればよかったと今では後悔しているけど、このときはそうすることを選ばなかった。
これは記者時代も同じで、遺族や被害者から話を聞くときはわたしはあまりメモを取らないようにしてきた。
こころのなかで葛藤しながらつらいできごとを話している相手に対してちゃんと目を見て話を聞きたい。
それに「取材者」と「取材相手」という雰囲気を出したくない。
一対一の人間として会話をするのに、メモを取るという行為はふさわしくないような気もしていたから。
メモを取っていないから、おじさんから聞いたことをここで詳細に書くことができないけど、わたしたちは2時間近くお話をうかがい、とても貴重な時間を過ごすことができた。
わたしとケンゾーにとっておじさんの話はこころに深く響いて、ルワンダでわたしたちがずっと抱えていたモヤモヤを解きほどいてくれるものだった。

「虐殺のときはどこに住んでいらっしゃったんですか。」
「ここの近くだよ。
たくさんの人たちが殺された。」
「足もそのときにやられたものなんですよね。
当時のことを聞いてもいいですか。」
「いきなりフツ族の男たちがうちに押し掛けてきたんだ。
怒鳴っていたし武器も持っていた。
こっちに抵抗する余裕なんてない。」
「押し掛けた人たちの中には顔見知りの人もいたのですか。」
「ああ。
わたしも含め男たちは村の一か所に集められた。
そこで殴られたり切られたり。
殺された人もたくさんいた。
わたしも頭を切られて、胸を何度も何度も叩かれた。」

頭に傷を受け、何度も圧迫された心臓の部分は今もときおり傷むという。
足にも金具を入れていて、足が完治することは一生ない。

「そんななか命をとりとめたんですね。」
「襲われて歩けなくなっていたし、わたしは倒れていた。
血も出ていたから、相手はわたしが死んだと思ったのだろう。
実際にまわりには殺された人もたくさんいたから。
しばらくしたらルワンダ愛国戦線の部隊がやってきてわたしたちを襲っていたやつらは逃げていった。」
「ご家族は?」
「わたしが連れ去られたとき、妻はほかの女性たちとともに別の場所に連れて行かれてしまった。
そこで殺された。」
「ご遺体は見つかりましたか?」
「いや、見つからない。」

ルワンダの虐殺は、それまで共存していたフツ族とツチ族がお互いに不信感を抱き、殺害に発展していった。
とはいえ、実は「フツ族」と「ツチ族」という民族の分け方はあいまいで言葉や宗教が違うわけではない。
はっきりと区別されないなか、判断手段は農耕民族か牧畜民族か。
畑を耕して暮らしていた人がフツ、家畜を飼って暮らしていた人がツチとされた。
第一次大戦後、ルワンダはベルギーによって支配された。
ベルギーは統治しやすいように行政のトップをツチに独占させ、教育面でもツチを優遇するようになった。
さらにツチかフツかを表示した身分証を発行したことで、それまで違いがあいまいだったフツとツチがはっきり区別されるようになった。
その後、逆にフツが優遇されるようになったりと両者の立場は逆転しながら、お互いへの反感が生まれていくようになっていった。
首都のキガリの虐殺記念館には、これまで世界で行なわれてきた虐殺について紹介しているパネルも展示されていた。
ナチスによるユダヤ人迫害、ユーゴ紛争のときの民族同士の殺し合い、カンボジアのポルポト派による虐殺。
でも、ルワンダの虐殺はほかの虐殺とはまったく違う。
宗教や文化の違いがないフツとツチがなぜ対立し、殺し合い、そして虐殺事件を経て共存するようになったのかがわたしは理解できなかった。

「虐殺が起きる前はこの村ではツチとかフツとか誰も意識することなく暮らしていたんだよ。」
「じゃあどうやってツチかどうかが判断されたんですか。」
「虐殺前、身分証を調べにくる者がいてそのときにどの家の者がツチなのかリストを作っていったんだ。
でも、とてもあいまいで飼っている牛の数で判断された人もいた。
身分証の表記はフツでもたくさんの牛を飼っていればツチとされた。
そしてフツであっても、ツチと結婚していればツチと同一視された。」
「それまではフツかツチかなんて意識せずに仲良く暮らしていたんですよね。
突然虐殺が起きたんですか?
それともその前から不穏な空気が流れていたんですか?」
「虐殺が起きる1年ぐらい前かな。
ツチが飼っている牛が奪われたり、勝手に家に入られて物を横取りしていくようなことが起きていった。
わたしたちも飼っていた牛をそのときに奪われたんだ。
反発しても聞き入れてもらえない。
人のものを勝手に奪っていくので法に触れているのに、奪った者たちは罪にとらわれない。」
その当時ルワンダは経済的に厳しい状況に置かれていた。
失業率も高かった。
ルワンダで家畜をもっているというのは財産をもっているということ。
一般の人たちが虐殺に手を染めていったのはツチに対する妬みにも似た感情があったからかもしれない。
なぜ民族の違いなんて意識することなく共存してきた人たちが、突然あんな虐殺をすることになったのか。
おじさんの話からわたしたちはその経緯がわかってきた。