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訪れた国は78カ国
旅した期間は1257日
2016年2月14日に帰国!
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ケンゾー   イクエ


2007年10月 結婚
2012年09月 世界旅行に出発

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優しくて・・・そして胸が痛い

小さいころから人よりも虫に刺されやすく、きょうもケンゾーが爆睡してるのにわたしだけダニに刺されまくり、夜中に懐中電灯でベッドを照らして4匹を撃退したイクエです。

心が重たくなるスレブレニッツァを見終わったのは、18時過ぎ。
きょうはスレブレニッツァの村に宿泊することにした。
といっても、こんな田舎で宿は見つかるかなあ・・・。

宿の心配をする前に、まずは村まで移動しないといけない。
虐殺の現場から村までは10キロ弱はあるので、ヒッチハイク。

暗くなる前になんとか車を捕まえなくては!

それほど時間がたたないうちに、一台のバンが止まってくれた。

英語があまり伝わらないけど、仕事帰りでスレブレニッツァの村に帰宅途中みたい。

わたしたちがホテルに泊まりたいことがわかると、知っているホテルまで送ってくれた。

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おじさんの車にはMINE ACTION TEAMの文字。
じつはおじさんの仕事は、地雷の撤去。
ユーゴスラビア紛争のときは、あちこちに地雷が埋められた。
たとえばクロアチア人のひとつの集落をめぐり、セルビア軍はそこに住むクロアチアの住民にそれ以上陣地を広げさせないように地雷を埋め、逆にクロアチア軍はセルビア軍がその集落にそれ以上攻め入って来ないように地雷を埋めた。
そんなふうに両者の思惑で、同じ場所に二重に地雷が埋められた場所も珍しくない。

おじさんの車には地雷注意の看板が載っていた。
きょうの作業で、ひとつ看板を外すことができたのかもしれない。

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わたしが学生時代クロアチアを訪れたときは、あちこちにこうした看板やテープが張り巡らされていた。
たとえば子どもたちが遊んでいたサッカー場は、地雷注意のテープに四方を囲まれていた。
だからグラウンドの部分は安全なんだけど、ボールが外に出るともうそこは地雷原。
なのに、子どもたちはそんなのおかまいなくボールを拾いにいったりしていたのだった。

当時、幹線道路は一日に数時間おきに通行止めになった。
通行止めになるのは、道路のまわりの地雷を撤去している時間帯で、安全のためにみんなを近寄らせないようにするため。
隣町まで行くだけなのに、何時間も路上で待たされたこともあった。
しかもそのとき、地面が揺れるほどの大きな爆発音が聞こえ、しばらくして救急車が猛スピードで入っていった。
撤去中に誤って地雷を爆破させてしまい、作業をしていた人が被害にあったようだった。

そんなのを見てきたから、旧ユーゴの国ではちょっとでもあぜ道に入ると地雷のことが心配になる。
ケンゾーが舗装された道から外れると「地雷があるかもしれん!」とつい注意する。
そのたびに、ケンゾーに「ほかの人の足跡もあるし、大丈夫だよ」と言われる。

車に乗せてくれたおじさんは、毎日そんな恐怖心をもって危険と隣り合わせの仕事をしている。
でも、こういう人たちのおかげで危険な場所が少しずつ安全な場所へと戻っている。
でも、すべての地雷が撤去されるには、あと何十年かかるのだろう。

おじさんが紹介してくれたのはこのホテル。

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リフォームしたばかりなのか、室内はあたらしく、清潔感がある。
バスルームもついていて、ふたりで44マルカ(約3170円)。

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田舎なのでいいホテルが見つけられるかどうか、見つかっても宿泊費が高すぎないか不安だった。
ホテルをおじさんが紹介してくれて助かった。

こんな田舎にお客さんなんて来るのかなあと思うけど、山の中にあるのでハイキングやカヌーでの川下りなんかもできるみたい。
さらにスレブレニッツァの虐殺記念館とあわせて、青少年の研修旅行なんかで使われるようで、若者グループたちが泊まっていた。

窓から見えるのがこの風景。

大きなドームに高いミナレット(塔)をもつモスク。
そしてその後ろに見える、十字架のついた塔がセルビア教会。

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セルビア人による、ムスリムへの虐殺の舞台となった村で、いまでもムスリムとセルビア人が共存していることに、ちょっと驚いた。
「共存」と言えるかどうかはわからない。
みんなわだかまりをもって、お互いあまり関わらないようにして暮らしているのかもしれない。
けれど、2つのグループが同じ村で暮らしているのは事実。

礼拝の時間になると、モスクに入っていく村人たちもいる。
そして、教会に祈りに行くセルビア人もいる。

窓から見えたセルビア正教会まで行ってみた。
そこからは村が見下ろせる。
小さくて、静かで、誰もが知り合い、そんな集落。

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いまの子どもたちは、90年代の内戦のことを知らない。
それでも、かつてここが戦場であったことを物語るものはいたるところにある。

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攻撃を受けて完全に人が住めなくなり、そのままに朽ちるのを待つだけの建物。
建物の持ち主や家族がみんな死んでしまったから、どうすることもできないのかもしれない。

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銃弾を受けた建物では、いまでも普通に人が生活している。
内戦の前からこの家で暮らしていたのかもしれない。
それとも元の家の主は追い出され、今では他の民族の人が住んでいるのかもしれない。

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多くの民家には、いまも生々しい銃弾の跡が残る。
壁を見るたびに、わたしはドキリとする。
でも、ここの人たちはその部分を修繕するでも、塗り直すでもなくそのままにしている。
こんな銃弾の跡なんてたいしたことないものに思えるほど、わたしには想像できない壮絶な殺害の現場を見てきたのかもしれない。
銃弾の跡を消したところで、そんな傷や記憶が消えるわけではない。

ホテルに戻って、ふたたび窓の外を見た。
さっきから1台の車が止まっている。

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車の上に、おもちゃやコーランを書いた壁飾りを広げて売っている流しの露天商。
寄せ集めの三流品。
ヨーロッパの国らしからぬ風景。

「あんなの買う人いるのかな?」
そんなことをケンゾーと話していたけど、けっこう売れている。

孫や子どもを連れてきて、おもちゃを買ってあげるおじいちゃんやお父さん。

活気もないし娯楽もほとんどないこの村でこそ、繁盛する商売なのかもしれない。

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暗さや沈黙を秘めたようなスレブレニッツァの村に一泊し、翌日はボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボを目指すことにした。
ここからのバスは早朝と夕方の一日に2便しかない。

ふたたびヒッチハイクに挑戦。

サラエボ

最初に拾ってくれたのはおじいさん。
ヒッチハイクでは英語が通じないことも多い。
はたしてどこまで連れて行ってくれるかなとドキドキ。
結局、5キロほど離れたところまで乗せてくれた。

サラエボまでは160キロくらいある。
まだまだゴールは先。

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次に乗せてくれたのは、30代くらいの男性。
カーステレオのところに十字架がさげられ、イエスやマリアのイコン(聖画像)が貼ってある。
尋ねなくても、セルビア人だというのがわかる。

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日本から旅行に来ているわたしたちが、セルビア人による虐殺の現場にわざわざやってきたことをこの男性はどう思っているのだろう。

男性は、近所のセルビア正教会の写真入りのカードをくれた。
「内戦のときは、ここでセルビア人が殺されて、この教会も爆撃されたんだ。」

どの民族も被害者になっている。
そしてどの民族も加害者になっている。
それがユーゴ紛争。

お互い自分たちのやってきた加害の事実については口を閉ざす。
でも、被害の事実については他者に知ってもらいたい。
そうして、両者の間にまた溝ができる。

戦争を克服する、平和を再構築するというのはほんとうに難しい。

男性は、わたしたちを30キロ以上乗せてくれた。
ほんとうは男性の目的地はもっと手前だったようで、わたしたちを降ろすとUターンして戻っていった。
「ここが分かれ道だから、あそこに立ってヒッチハイクの続きをすると成功しやすいよ。」と言い残して。

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このあたり一帯は、ことし大雨の被害を受けて畑や民家が水没したと男性は言っていた。
途中、道路が崩れていたり、土砂が押し寄せていたところもあった。

この川も氾濫したのだそう。

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今は川の水位は戻ったけど、地面がえぐれて水が溜まっていたり、土まみれになっている家もある。
海外からの復興支援もあったようだけど、民族で差をつけることをせず、ほんとうに支援が必要な人のところにちゃんとまわっていたらいいけど。

さらに、川の氾濫で埋められている地雷がほかの場所へ流されなかったか心配。
地雷原の外に地雷が流されてしまったら、ますます地雷の発見や撤去に時間がかかるし、犠牲者が出るかもしれない。

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ケンゾーが「ちょっとトイレしてくる」と脇道にそれた。
また、地雷のことが不安になる。

まだ目的地まで百数十キロはある。
行き先を書いたプラカードをもって、親指を立てるけどなかなか車がとまってくれない。

交通量はけっこうあるのになあ。

30分以上経って、1台の車が止まってくれた。
またセルビア人で、若いカップル。

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2人にはかわいい赤ちゃんもいる。
じつはわたしたちの前を一度通り過ぎたけれど、気になったからわざわざUターンして戻ってきてくれたんだって。
ありがたい。

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さらに、「自宅に立ち寄って。コーヒーでもごちそうするから。」とありがたいお誘い。
Miliciという街で、だんなさんのお父さんと弟さんといっしょに暮らしている。

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ここはボスニアのなかにあるけど、セルビア人の街なのだそう。
というのも、ボスニア・ヘルツェゴビナにはスルプスカ共和国と呼ばれるセルビア人自治区がある。
ボスニア・ヘルツェゴビナが旧ユーゴから独立を決めた際に、独立に反対したセルビア人たちが自分たちの国を求めたことで生まれた共和国。
その領土はボスニア・ヘルツェゴビナ全体のおよそ半分を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナの北側と東側で「7」のような形で広がっている。

それがわかる地図をくれた。

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スルプスカ共和国には独自の大統領がいるし、立法府をもっている。
といっても、スルプスカ共和国にはセルビア人が多いと言うだけでムスリムもクロアチア人も住んでいるし、スルプスカ共和国以外の地区にもセルビア人は住んでいる。

しこりを残したまま、いびつな形でボスニア・ヘルツェゴビナという国は存在している。

「内戦前はユーゴスラビアとしてひとつの国だった。そのときのほうが良かった。」とここのお父さんやだんなさんは言った。
むかしのほうが仕事もあって、生活に余裕があったのだそう。
今では仕事がない若者も多く、近くの工場で一日中働いても月に7万円稼げればいいほうなのだと教えてくれた。

そもそもユーゴスラビアだった時代は、国の主要なポストに就く人はセルビア人が多く、セルビア人がほかの民族よりも政府から優遇されていたとも言われている。
それもあって、ほかの民族がユーゴから離脱したがり、民族紛争に発展した経緯がある。

スロベニアやクロアチアの人たちにとっては、離脱後のいまのほうが納得いく暮らしができるようになったのかもしれないけど、セルビア人にとっては内戦でいろんなものを失い、世界的にも嫌われ、すっかり生活が変わってしまった。

わたしたちがスレブレニッツァに行ったことを知ると家族は「ほんとうは8000人以上も虐殺されてないんだよ。あの人数はムスリムたちが誇張しているんであって、あのお墓にも遺体がなくて空っぽで墓標だけが立てられているのも多いんだ。」と言った。

南京大虐殺も、ナチスによるユダヤ人の虐殺も、被害者数についてはいろんな意見がある。

犠牲者の数が少ないから許されるということはない。
スレブレニッツァも、仮に犠牲者の数が少ないとしても残虐なことが行なわれたことは事実であるし、当事者もそしてわたしたち第三者もその歴史を受け止めて、二度と繰り返さないように反省し、平和な社会をつくるために歩み、和解をしなければならない。

でも、それはとても難しいこと。
スレブレニッツァの被害者の数を少なく言う家族を、わたしは単純に否定できない。

この優しい家族が、そしてボスニア・ヘルツェゴビナに住む人たちが、旧ユーゴスラビアの国々で生きる人たちが、二度と戦争なんて残虐なことに巻き込まれることなく、幸せに生きていくにはどうすればいいんだろう。

生まれたばかりのこの赤ちゃんは、戦争を知らない。
ずっとずっと、知らないで済みますように・・・。

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この家族はふたたびわたしたちを車に乗せて、ヒッチハイクしやすい幹線道路まで送ってくれた。
みんな、とても優しい。

1時間以上待って、ようやく2人組の若者が止まってくれた。

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そしてこの若者たちも、自分たちの目的地よりも先まで行ってくれて「ここだと車が捕まりやすいから」と言い残しUターン。

毎回別れた後に「あー、目的地よりも先まで行かせてしまったんだ〜。申し訳ないなあ。もっと感謝の言葉を伝えればよかったあ・・・。」と後悔。

降ろしてもらった道路の向かい側に、白いものがたくさん並んでいるのが見えた。
近くまで行ってみると、セルビア人のお墓だった。

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亡くなった年は1992年。
きのうはスレブレニッツァでイスラム教徒の白い墓標をいくつも目にしたけど、セルビア人だって多くの人が殺されている。

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こんなにも発展した時代に、さらに生活基盤が整っているヨーロッパで、人が人を殺すという原始的なことが起こってしまった事実をどう受け止めたらいいのだろう。
人間は成長し、進化していくものではないのかな。

道路越しの墓標が視界に入る。

ヒッチハイクをしていると1台の車が止まってくれた。

2人組の男性は車のディーラーで、なんと仕事でスレブレニッツァに行き、サラエボに戻る途中だという。
スレブレニッツァで出会っておけば、ダイレクトでサラエボに行けた!
でも、たくさんの人に乗せてもらい、そのぶん出会いがあったからこれで良かったんだ。

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最後の100キロほどのルートを一気に走る。
その景色が、きのうからの重苦しさを少し取り除いてくれる。
窓から見える景色は、豊かな自然と素朴な家々。

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ボスニア・ヘルツェゴビナは山もあって平原もあり、川が流れ、ほんとうに美しいところ。

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戦争なんて似合わない場所。

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山間を抜けると、いっきにサラエボの街が姿をあらわしてビックリした。
車の男性たちはわたしたちがホテルを決めてないことを知ると、知り合いに電話してくれて探してくれようとしたけれど、観光しやすい旧市街で自分たちで探すことにした。

「助かりました!ありがとうございました!」

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ほんとうにきのうときょうと、いろんな人の車に乗せてもらって親切にしてもらった。
どうしてこういう人たちがいる国で住民同士が殺しあったり強姦するという残虐なことが起きてしまったのか。

民族間の憎しみやわだかまりがなく、幸せに生きていける社会は内戦前たしかにここにも存在していた。
ふたたびそんな社会をつくることはけっして夢物語じゃないとわたしは信じたいし、信じている。
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バックパックについて

ブログ、いつも楽しく読ませて頂いてます
私自身、11月から世界一周へ旅立月予定で、今準備真っ只中です
イクエさん、バックパック35リットルを使っておられると思い、ご相談させて頂いてもよろしいでしょうか

私、ZERO POINT チャチャパック35を所有していまして、買い替え必要かどうか迷っています
予算的に出来れば避けたいと思ってます…
長期間、生活するようなスタイルで旅をされているお二人ですが、35リットルの容量での荷物管理は困ったことはないでしょうか?何か工夫されていることはありますか?

お身体に気を付け、楽しんで下さいね‼︎

No title

「命より大切なものがあると言って戦争を始め、命にまさるものはないと言って戦争を止める」そうです。

YOSHIMIさま

お返事遅くなりました。
結論から言いますと、大きいものを買い直されたほうがいいと思います。
わたしはケンゾーと持ち物をシェアしているので、なんとかなっていますが、それでも入りきれずショルダーバッグ以外に手提げバッグも持ち歩き、さらには寝袋とシューズをビニール袋にいれてバックパックにくくりつけるという、ダサい格好になっています。
わたしも1、2か月の旅行をしていたときはそのバッグでも全然余裕でした。
でも長期となると、夏物、冬物もひととおりもっておかないといけないし、日本からもっていく薬もそれなりの量になります。トイレットペーパーなんてなかなか手に入らないところもあるのでロールで持ち歩いたりもしています。
ちなみに大量の薬や電気機器はすべてケンゾーがもってくれています。
たまーに、小さいバッグで旅している人がいて身軽で羨ましくなることもあります。
小さいバッグでも不可能ではないですが、パソコンなどの電子機器がない、カメラもスマホだけにするかコンパクトデジカメにする、服は最小限で季節や国によって現地調達や処分を繰り返す、サンダルなど余分な靴をもたない
などかなりがんばらないといけません。
女性は男性よりも厳しいと思います。
コンディショナーや化粧水もいるし、毎日洗濯できないこともあるから最低三日分くらいの服は必要だし、虫除けや、スカーフもあったほうがいいし、、。
買い替えの予算が理由で迷われているなら、絶対買い換えたほうがいいですよ。
一番必要な準備経費だと思います。

やまもと さま

考えさせられます。そうなのかもしれないですね。
大切な命をなくさないと、その事実に気づかないのが、人間ってとても弱くて悲しいなと思います。
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