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「ヨーロッパ・ピクニック計画」

2014.08.08 06:25|ハンガリー☞EDIT
ロシア語で説明が書いてあるカザフスタンの街頭でもらったニベアの試供品を、保湿クリームと信じて使っているイクエです。
クレンジングクリームだったらどうしよう~。

きょうは、ある歴史的な出来事についてのお話。

「え~、歴史なんて興味ない」というあなた。
まあそう言わずにおつきあいください。
おもしろくて感動的なお話かもしれませんよ。

レンタカーでハンガリーからオーストリアに移動しているイクエとケンゾー。
ガイドブックには「国境付近の街はヨーロッパ・ピクニック計画の舞台になったところ」と書かれていた。

ヨーロッパ・ピクニック計画?
その楽しそうな計画は何?
ピクニックのくせに、あたまに「ヨーロッパ」なんてついていてなんだか壮大な感じがする。

イクエもケンゾーも知らなかった出来事だけど、どうも有名な出来事らしい。
どうしてわたしたち、知らないんだろう。

その出来事が起きたのは1989年。
イクエが小学生、ケンゾーが中学生のときのこと。
国際ニュースに興味がない年齢だし、かといって新しすぎて歴史の授業では習わない。
だからちょうどその時期の出来事って、わたしたちの知識からすっぽり抜け落ちてるんだよね。
もしかしたら10歳ぐらい下の子たちは近現代史の授業で教わっているのかもしれない。

ヨーロッパ・ピクニック計画は、その軽々しいネーミングからは想像もできないほど意義深い出来事だった。
じつはこのピクニックは、ベルリンの壁の崩壊、東西ドイツ統一のきっかけとなったもの。

きょうはそんなヨーロッパ・ピクニック計画の舞台になった場所を旅しながら、この出来事をご紹介します。

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道路脇には草が生い茂る。
その向こう側にはケシのような赤い花が一面に咲き誇り、空との境目には森が広がっている。

わたしたちが車を走らせているのはハンガリーの田舎の道路。
家なんてない。
狭い道路ですれ違うのは干し草いっぱいのトラクター。

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ハンガリーの果ての場所。
そしてオーストリアの入口ヘと通じる場所。

まだ信じていいのかわからないけど、こんな辺ぴなところにも国境があるらしい。

1989年。
あのときも、期待と不安でいっぱいの人たちが国境を目指しこの道を通っていた。

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1989年ー。
世界が西側と東側、民主主義と社会主義に分かれてイデオロギーを争っていた時代。
「冷戦」と呼ばれていた緊張が世界を取り巻いていた時代。

といっても、80年代後半はすでに社会主義にかげりが見え始めていたころ。
社会主義国家だったここハンガリーでも民主化への動きが生まれていた。
東側社会主義国の筆頭だったソビエト連邦でさえゴルバチョフによるペレストロイカ(民主化へ向けた改革政策)が始まっていた。

けれど、そんななか例外的な国があった。
社会主義を貫き秘密警察によって国民の思想を弾圧しつづけていた、東ドイツ。
東ドイツのリーダーたちは恐れていた。

「民主化を進め市場経済を導入すれば西ドイツと同じようになってしまい、もはや東ドイツの存在意義がなくなってしまうのではないか。」
「リーダーである自分たちの権威もなくなるのではないか。」

まわりの国が民主化へ向けて動きだすなか、東ドイツはかたくなに改革の波に抗い続ける。
民主化を肯定するような思想は徹底的に弾圧し、言論統制を強め、とうとう1988年にはソ連の雑誌でさえ発禁処分にしたほど。

そんな東ドイツがどうやって変わっていったのか。
そのきっかけがまさにヨーロッパ・ピクニック計画だった。

1988年、社会主義国だったハンガリーはネーメト・ミクローシュ首相の新政権のもと民主化への動きが加速していた。
その年には国民の海外旅行の自由を認め、翌年には国境に張り巡らされた鉄条網が撤去された。

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そんな時代にハンガリーで起きたヨーロッパ・ピクニック計画。
それは市民団体の活動家たちや政治家が集まった飲み会の席での軽い冗談から始まった。

「隣のオーストリアは資本主義で、我々ハンガリーは社会主義だけどそんなふうに東とか西とか分けるの、バカらしいよねえ。」

「ハンガリーは東側って言ったって、もう民主化が進んでるし。」

「っていうか、もうオーストリアとハンガリーの国境なんていらなくない?」

「そうだよね。
新しい首相は、東側諸国と西側諸国を分ける鉄のカーテン(鉄条網)も撤去してるけど、結局国境警備隊が監視してるから自由に行き来できないし。」


「それに鉄のカーテンもまだすべて撤去されてるってわけじゃないもん。
まだ開かれてない国境の門もあるし。」


「いいこと思いついた!
国境のところでさ、焚き火でもしてみんなでバーベキューやろうぜ。」


「お、いいねえ、それ。
じゃあさ、ハンガリー人とオーストリア人がそれぞれ国境のフェンスのところに寄ってきて、お互い食べ物を交換しあうってのはどう?
あとお互い歌ったり、踊ったりして。」


「アハハ、それ盛り上がるよ絶対。
東側と西側が国境でいっしょにピクニック!」


話にでてきた国境のフェンスは、いまも残っていた。
立ち入らないように2重のフェンスがされ溝も掘られ、厳重な境界だった。

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そんなところで大掛かりなピクニックをやるなんて、冗談もほどほどに、と言いたいところだけどどうやらそれは冗談で終わらなかった。

ノリで言った冗談は、どんどん現実味を帯びていくことになる。

活動家たちは当時のネーメト首相にもこの話を持ち込み、この嘘のようなピクニック計画が実行に向けて動き出した。

でもいったいなぜ、この平和な馬鹿騒ぎがベルリンの壁の崩壊につながったのか。
「ヨーロッパ・ピクニック計画」なんて壮大なネーミングなのか。

それには当時の東ドイツのこんな状況があったから。
その当時、言論統制、思想の弾圧、民主化の動きへの抑圧を徹底していた東ドイツでは、国民は自由に海外旅行ができなかった。
西側へは行けないけど、東側諸国へは旅行の許可証をもらえることがあった。
つまり、このとき東ドイツ人はおなじ社会主義国だったハンガリーには行くことができた。

だから、ピクニック計画が実行されてハンガリーとオーストリアの国境が開かれたら、ハンガリーに入った東ドイツ人もどさくさに紛れて、西側諸国であるオーストリアに入ることができるかもしれない。

さらにオーストリアを経由し、ベルリンの壁で分断されている西ドイツに入ることができるんじゃないか。

そうは言っても、ハンガリーの国境からオーストリアに入れるのはハンガリーのパスポートを持った人だけ。
東ドイツ人をすんなり西側諸国に入れるなんて大問題だし、東ドイツの政治家たちに猛抗議されるに決まっている。

そんな緊迫した状況のなか、表向きにはのほほんとしたピクニックがショプロンで開かれることになった。

なぜショプロンなのか。
それは、ショプロンの地形が特徴的だから。

ショプロン

オーストリア領に張り出すように位置するショプロンは三方をオーストリアに囲まれて、すべての道がオーストリアに通じている。

ここだと比較的オーストリアに脱出しやすいと見られていた。
すでに国境の鉄条網が撤去されはじめているハンガリーには、東ドイツ人たちが大挙して押し寄せていた。

1989年8月19日。
田舎の国境地帯ショプロンでのヨーロッパ・ピクニック計画の日がやってきた。

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ピクニックのプログラムは、表向きのものと水面下のものと2つ用意され並行して実行された。

ピクニックの名目は「ヨーロッパの将来を考える集会」。
午後2時、その歴史を揺るがすイベントが始まった。

特設ステージがつくられ、ブラスバンドが演奏。
主催者や政治家たちがあいさつをする。
会場にはチロル民謡やハンガリー民謡が流れて大盛り上がり。
テーブルが用意され、ご当地の食べ物やビールが振る舞われた。

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ショプロンのその場所には、いまも当時の会場が公園として残されている。
いくつものパネルが設置され、当時の様子が写真でわかるようになっている。

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単なる青空の下でのピクニックにしか見えないその会場。
けれど水面下では着々と一大プロジェクトが進んでいた。

オーストリアに脱出することを願う東ドイツの人たちであふれているショプロン近郊のホテルやキャンプ地。
主催者たちは、あらかじめ手配したバスに彼らを乗せて会場へと移動させていく。

普段、不法出入国に監視の目を光らせるハンガリーの国境警備隊たち。
この日にかぎっては会場の1キロ圏内に近づかないように命じられていた。

公園の木々の奥には現在では使われていない監視塔が残っている。

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それまでは、ここから銃を構えた警備隊が見張っていたのだろうけど、ピクニックのあの日はここから銃を向けられるなんてことはなかった。
だって、この日は平和なピクニックを行う日なのだから。

会場は、歌に踊りにますます盛り上がっている。

そんななか午後3時。
国境の検問所が壊された。
ちょうどバスで到着した東ドイツ市民たち。
ピクニックのお祭り騒ぎには目もくれず、一目散に国境へ。

大きく開かれたゲート。
そこに立つ検問所の係官たちは、東ドイツ人にわざと背を向けて気づかないふりをし、入国してくるオーストリア人のパスポートを必要以上に入念にチェックして時間を稼ぐ。
もちろん、彼らもこのピクニックのほんとうの目的を知っている。

その隙にオーストリアへと走り込む東ドイツ人たち。
オーストリア人の旅行者たちは、彼らが通りやすいように笑いながら道を開ける。

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オーストリア側にはバスが待機。
そのまま彼らが西ドイツへと行けるように手配されていた。

そしてその日、1000人を超える東ドイツ人たちが国境を越えてオーストリアになだれ込んだ。

ひとつの国だったドイツ。
それが東と西に分断されてしまい、親しかった友人や家族に会うこともできずに離ればなれで辛い思いをしていた人たちがたくさんいた。
ピクニックが、この夢を叶えてくれた。

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ピクニックという平和なイベントで世界に風穴を空けるという発想。
そして市民団体と波長を合わせて協力したハンガリーの政治家たち。
センスあふれる人たち!

ここに立つと、当時このフェンスを通り抜けた人たちの歓喜の声と、その人たちを祝福するハンガリーとオーストリアの人たちのエールや拍手が聞こえてきそう。

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このピクニックが大成功に終わると、ますます多くの東ドイツ人たちがショプロンに押し寄せた。

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東ドイツはハンガリーを激しく問いつめたけれど、ハンガリー政府は東ドイツとの国交断絶を覚悟で自分たちの意志を貫き通した。

さらにブダペストの街の隠れ家のような場所に、西ドイツの大使館員が常駐し、ハンガリーに逃れてきた東ドイツ人たちに西ドイツのパスポートをこっそり発給するようになった。
当時、東ドイツ人が西側のパスポートをもつことなんて許されなかったけど、ハンガリー政府はそれも見て見ぬ振り。

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さらにハンガリー政府は翌月、国境を全面開放。
ハンガリー国内に待機していた何万人もの東ドイツ人たちがオーストリアに入国。

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こうして東ドイツでは医者、電車やバスの運転手、若い労働者たちが次々に東ドイツを去り、その結果、交通機関の運休や病院や工場の閉鎖が起き、社会が成り立たないようになっていった。
そのため東ドイツ政府は国境を閉鎖。
東ドイツ国民が海外に逃げられないようにした。

それがかえって国民の反感をかうようになり、政府を批判するデモが東ドイツ国内で次々に発生。
トップは退陣に追い込まれ1989年11月9日、ついにベルリンの壁が崩壊したのだった。

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勉強不足でヨーロッパ・ピクニック計画なんて知らなかったけど、もしこのピクニックが開かれなかったら、東西ドイツはいまのような平和なひとつの国になっていなかったかもしれない。
仮に冷戦が終結したとしても、もっと時間がかかっただろうし、どちらも引かない東と西で武力闘争や戦争も起きていたかもしれない。

ヨーロッパでハンガリーなんて弱小国って思われているかもしれないけど、この国こそが未来へのドアを開けた。

国境には、ヨーロッパ・ピクニック計画を記念するモニュメントが建っている。

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ヨーロッパ・ピクニック計画から25年。
EUができて、人々は自由に隣の国へと行けるようになった。
いまでは国境に高電圧の鉄条網もなければ、パスポートチェックさえない。

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国境には係の人さえいないし、EU圏内だからイクエとケンゾーもハンガリーの出国スタンプもオーストリアの入国スタンプも押されることはない。

ここが国境ということさえ意識もせず、いつのまにかオーストリアに入国できてしまう。

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だけどこの国境ほど、歴史やロマンを感じる国境はないかもしれない。
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Comment

ただ、ただ感動するね。当時の人たちの息づかいや心が、このブログから伝わってきます。

ただすけ さま

この計画が練られたのは日本人の奥さんをもつハンガリー人の家だそうです。
その日本人の女性は当時、話を聞きながらドキドキ胸がおどったみたいですよ。

No title

ヨーロッパ・ピクニック計画を教えて頂いてありがとうございます。国際通の知人たちに聞いても若い人たちに聞いても、ほとんどの人が知りませんでした。このブログを見たあと、1993年放送のNHKスペシャルを見たり、当時ハンガリーに住んでた人の話を聞いて、ますますこの計画の意義とハンガリー人の勇気に感動しました。何より、ベルリンの壁崩壊の経緯がよく分かりました。多くの知人たちにもこの話を知ってもらいたいと、教えまくっています。さすが、ケンゾーイクエさんのジャーナリストとしての視点だと。ありがとうございました。

趣味三昧さま

そんなお褒めの言葉をいただき恐縮です。
わたしたちもまったく知らずに、ここに行く前日に知ったくらいです。
しかも、当時のピクニックの場所が残されているなんて着くまで知らなかったんですよ。
付け焼き刃で記事を書いたので、正確でない部分やわかりにくいところもあったかと思います。
記事を書くときに、ネットで調べてわたしたちもNHKスペシャルの存在を知ったのですが、現在ネット環境がよくない場所にいるので見てないんです。
今度ぜひとも見てみたいです。
たくさんのお知り合いのかたに伝えていただいて、とてもうれしく思います。
こちらこそありがとうございます。
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