タシケント・日本に帰国できなかった人たち
世界一周ブログランキングで最近クリックしてくれる人が多くて、とってもありがたいなと思うイクエです。
読者のかたには何の利益にもならないのに、わざわざクリックしていただきありがとうございます!!
ブログの書き甲斐があります。
フェルガナ盆地を旅したイクエとケンゾー、そしておかあ。
2週間3人で旅をしたけど、ついに明日おかあは日本に帰る。
首都・タシケントに戻って最後に3人で泊まる宿はバックパッカー御用達の宿、グルナーラ。
中庭にテーブルがあってくつろげるようになっている。

朝食、エアコン、Wi-Fi付き、3人で150000スム(約6000円)。
バックパッカーにとっては高いけれど、それでもタシケントでは安い部類。
狭い部屋にベッドだけ。
室内にバス・トイレはない。
う~ん。おかあは満足できないだろうな。

でも、おかあはこう言った。
「なかなか、ここ、良いたい。」
こんな狭くてシンプルな部屋をおかあが気に入るなんてびっくりだ。
泊まる部屋にお風呂があるのは当然で、なおかつお湯がためられるバスタブつきじゃないとイヤだと言っていたおかあが、である。
この2週間、安宿探しにつきあわされ、文句も言わずにイクエとケンゾーが選ぶ宿に泊まらされた結果、すっかり宿に対する許容範囲が広くなっている。
今回初めて宿がすんなりと決まったことを何よりおかあは喜んでいた。
宿探しでさまよったり、イクエとケンゾーが宿を探し歩く間ひとり道端で何十分も荷物番をしたり。
もっと楽で余裕のある旅行をさせてあげたかったなと反省。
さて、3人旅の最後の訪問地タシケントの街へ繰り出そう ♪
タシケントはウズベキスタンの中でもっとも都会だけれど、敬虔なイスラム教徒の女性が多いように感じる。
頭にはスカーフ、そして腕と足をすっぽり隠したファッションの女性たち。

高そうなリムジンが大集合!
社長たちの会合? 一流レストランの駐車場? 迎賓館?
政府の要人や大企業の社長、芸能人がいたりして。

でも、それっぽい人たちはいない。
どうやらここは、リムジン専用のレンタカー会社。
ウズベキスタンでも、そんな需要があるんだね。

泊まっている宿は旧市街に位置していて、ここにタシケントの見どころがある。
まずは16世紀に建てられたイスラム教の神学校クカルダシュ・メドレセ。
ソ連時代には倉庫として使われていたけど、独立後に修復され、いまも現役。

そしてチョルスー・バザール。
体育館のような広い室内には、香辛料やチーズ、ドライフルーツ。
いろんな匂いが混ざり合う。

屋外市場では、野菜やフルーツが山積み。
まるで玉ねぎみたいな形の丸い茄子。

まるで茄子みたいな形の細長い玉ねぎ。

「とうもろこしはいかが?」
ライバル同士、並んで仲良く商売。
売っている品物も同じだけど、売っている女性たちも同じに見える・・・。

木に吊るされて売られているのは、洋梨のような形の鳥かご。
全部布でできていて、とってもかわいい。

その奥の柳の下に人が集まっている。
人というか、布が集まっているのか?

ウズベクマダムに大人気のコーナー、ワンピースの路上販売だった。
売っている物も、それを売る人も、買う人も、ワンピースだらけ。

バスに乗って新市街の中心部へ。
これまで観光してきたのはモスクやメドレセといったイスラム建築や、シルクロードの時代にタイムスリップしたような古い街並み。
タシケントの新市街の雰囲気は、イスラム圏というよりもロシアやヨーロッパの街並みのようで、同じ国とは思えない。

ウズベキスタンでは綿花栽培が盛ん。
綿花の花をイメージしてつくられたという噴水。
その向こうに見えるのはナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。

1500人収容できるこの劇場は1947年に完成したもの。
50年以上が経ち、ちょうど修復作業中。

この建物、第二次世界大戦のときソ連に抑留された日本兵たちが強制労働で建てたものなのだそう。
地震でもびくともしなかったほど丈夫にできているんだって。
強制的に働かされていたとはいえ、手抜きをしなかったのが日本人らしい。
これまでの半世紀、そしてこれからも後世に渡って使われ続けると思う。
ソ連に捕らえられた日本兵のなかには、ウズベキスタンに連行されてこの地で命を落とした人たちも多い。
タシケントにはそんな日本人の墓地もある。
言葉も、食も、風土も日本とはまったく異なるウズベキスタン。
「炊きたての日本米が食べたいな」
「家族と食卓を囲んで、ほっとする時間を過ごしたい」
「桜や紅葉、日本の四季を感じたいな」
好きで海外にいるけれど、そんなことをしょっちゅう思う。
自分の意思に関係なくまったく知らない国にやってきて、なおかつ強制的に働かされていたら、そんな思いもひとしおだ。

恋いこがれたふるさとの景色を見ることなく、家族と連絡も取れず、行方不明扱いで亡くなった人たち。
そんな人たちが、このタシケントにもいたということをいったいどれだけの日本人が知っているだろう。
読者のかたには何の利益にもならないのに、わざわざクリックしていただきありがとうございます!!
ブログの書き甲斐があります。
フェルガナ盆地を旅したイクエとケンゾー、そしておかあ。
2週間3人で旅をしたけど、ついに明日おかあは日本に帰る。
首都・タシケントに戻って最後に3人で泊まる宿はバックパッカー御用達の宿、グルナーラ。
中庭にテーブルがあってくつろげるようになっている。

朝食、エアコン、Wi-Fi付き、3人で150000スム(約6000円)。
バックパッカーにとっては高いけれど、それでもタシケントでは安い部類。
狭い部屋にベッドだけ。
室内にバス・トイレはない。
う~ん。おかあは満足できないだろうな。

でも、おかあはこう言った。
「なかなか、ここ、良いたい。」
こんな狭くてシンプルな部屋をおかあが気に入るなんてびっくりだ。
泊まる部屋にお風呂があるのは当然で、なおかつお湯がためられるバスタブつきじゃないとイヤだと言っていたおかあが、である。
この2週間、安宿探しにつきあわされ、文句も言わずにイクエとケンゾーが選ぶ宿に泊まらされた結果、すっかり宿に対する許容範囲が広くなっている。
今回初めて宿がすんなりと決まったことを何よりおかあは喜んでいた。
宿探しでさまよったり、イクエとケンゾーが宿を探し歩く間ひとり道端で何十分も荷物番をしたり。
もっと楽で余裕のある旅行をさせてあげたかったなと反省。
さて、3人旅の最後の訪問地タシケントの街へ繰り出そう ♪
タシケントはウズベキスタンの中でもっとも都会だけれど、敬虔なイスラム教徒の女性が多いように感じる。
頭にはスカーフ、そして腕と足をすっぽり隠したファッションの女性たち。

高そうなリムジンが大集合!
社長たちの会合? 一流レストランの駐車場? 迎賓館?
政府の要人や大企業の社長、芸能人がいたりして。

でも、それっぽい人たちはいない。
どうやらここは、リムジン専用のレンタカー会社。
ウズベキスタンでも、そんな需要があるんだね。

泊まっている宿は旧市街に位置していて、ここにタシケントの見どころがある。
まずは16世紀に建てられたイスラム教の神学校クカルダシュ・メドレセ。
ソ連時代には倉庫として使われていたけど、独立後に修復され、いまも現役。

そしてチョルスー・バザール。
体育館のような広い室内には、香辛料やチーズ、ドライフルーツ。
いろんな匂いが混ざり合う。

屋外市場では、野菜やフルーツが山積み。
まるで玉ねぎみたいな形の丸い茄子。

まるで茄子みたいな形の細長い玉ねぎ。

「とうもろこしはいかが?」
ライバル同士、並んで仲良く商売。
売っている品物も同じだけど、売っている女性たちも同じに見える・・・。

木に吊るされて売られているのは、洋梨のような形の鳥かご。
全部布でできていて、とってもかわいい。

その奥の柳の下に人が集まっている。
人というか、布が集まっているのか?

ウズベクマダムに大人気のコーナー、ワンピースの路上販売だった。
売っている物も、それを売る人も、買う人も、ワンピースだらけ。

バスに乗って新市街の中心部へ。
これまで観光してきたのはモスクやメドレセといったイスラム建築や、シルクロードの時代にタイムスリップしたような古い街並み。
タシケントの新市街の雰囲気は、イスラム圏というよりもロシアやヨーロッパの街並みのようで、同じ国とは思えない。

ウズベキスタンでは綿花栽培が盛ん。
綿花の花をイメージしてつくられたという噴水。
その向こうに見えるのはナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。

1500人収容できるこの劇場は1947年に完成したもの。
50年以上が経ち、ちょうど修復作業中。

この建物、第二次世界大戦のときソ連に抑留された日本兵たちが強制労働で建てたものなのだそう。
地震でもびくともしなかったほど丈夫にできているんだって。
強制的に働かされていたとはいえ、手抜きをしなかったのが日本人らしい。
これまでの半世紀、そしてこれからも後世に渡って使われ続けると思う。
ソ連に捕らえられた日本兵のなかには、ウズベキスタンに連行されてこの地で命を落とした人たちも多い。
タシケントにはそんな日本人の墓地もある。
言葉も、食も、風土も日本とはまったく異なるウズベキスタン。
「炊きたての日本米が食べたいな」
「家族と食卓を囲んで、ほっとする時間を過ごしたい」
「桜や紅葉、日本の四季を感じたいな」
好きで海外にいるけれど、そんなことをしょっちゅう思う。
自分の意思に関係なくまったく知らない国にやってきて、なおかつ強制的に働かされていたら、そんな思いもひとしおだ。

恋いこがれたふるさとの景色を見ることなく、家族と連絡も取れず、行方不明扱いで亡くなった人たち。
そんな人たちが、このタシケントにもいたということをいったいどれだけの日本人が知っているだろう。