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訪れた国は78カ国
旅した期間は1257日
2016年2月14日に帰国!
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ケンゾー   イクエ


2007年10月 結婚
2012年09月 世界旅行に出発

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突然の震災 わたしたちができたこと

2016.06.20 06:14|世界からのメッセージ☞EDIT
梅雨の晴れ間のキラキラとした緑と小鳥のさえずりに、心が洗われる思いのイクエです。
地震に襲われた南阿蘇だけど、窓から見える山々の景色はほんとうに素晴らしいです。
けれど、山肌がむき出しになった土砂崩れのあとも見えます。
痛々しい景色だけど、それでもこの雄大な自然は素晴らしく、早くたくさんの観光客が戻ってきてほしいなあと思います。

きょうも旅の話を中断して、熊本地震の日のことを書きたいと思います。

わたしたちはひどい揺れに襲われました。
ものすごく強い揺れ、というのはわかるけど、それがどの程度の地震なのかそのときはまったく想像さえできません。
人によってそのときの感覚は異なります。

わたしは揺れがどのくらいかわからず、それが震度5と言われたら、そうなのかなと思ったかもしれません。
でもケンゾーは「死ぬかと思った」そうです。
母は、ドンと縦に突き上げる揺れに「なんね、これはー!!」とひとりで叫んだそうです。
姉は縦揺れは感じず、激しい横揺れだけが記憶に残っているといいます。
近所の人は「寝ていたら体が天井についてびっくりした」と言っていて、さすがにそんなことはないだろうと思っていたのですが、実際ある妊婦さんはお腹が天井に当たって緊急搬送されたそうです。

ようやく揺れが収まりました。
ケンゾーは早く脱出しようとしていました。
わたしは不思議なことにずっとこのままここにいたいような気持ちでした。
現実を受け止められなかったのかもしれません。
余計な事をしたくない、こころを落ちつかせたいという思いがあったのでしょうか。
外に出てこれ以上の刺激を受けたくない、この部屋にいればここの世界しか知らなくてすむ、そんな気持ちもあったかもしれません。
とにかく動きたくありませんでした。

これはとてもダメなことだと思います。
危険な目に直面したとき、九死に一生を得た人というのは、しっかりと冷静に行動できる人です。
わたしはまったく能動的に動けなくなっていました。

ただ、揺れの衝撃からか(あとでわかったのですが、自分たちがいた部屋が落下して車が下敷きになったため)車庫の車がけたたましい音を立てていました。
防犯のベルなのかわかりませんが「ブー ブー ブー」と大音量です。
動きたくないと思っていたわたしは「早く、あれを止めないとお隣さんに迷惑がかかる。止めにいかなきゃ。」と思いました。
あとでこれをケンゾーに話したら「あんなときにどうしてそんなこと考えると? 近所の人だってそれどころじゃないやろ。むしろ大音量で起こしてあげたほうがいいくらい。」と言いました。

でも、そのときのわたしは「早く音が鳴り止んで! 迷惑がかかる。」ということばかり思い、焦っていました。
あとで考えると、とても変なことです。

いっぽう「死ぬかと思った」ケンゾーは、冷静な行動をとりました。
わたしたちが寝ていた部屋にはほとんど何もなかったのですが、ふたりの趣味のスキューバダイビングの用具が一式ありました。
そのバッグから海用のブーツと手袋を取り出し、「早く、これ、つけて!」とわたしに差し出しました。
そしてケンゾーが言いました。
「早く、ここから脱出せんと俺らも危ない。
 崩れるかもしれん!」

立ち上がろうとしたら、大きな余震がきました。
荒波に揉まれる船に乗っているみたいでした。
そこでまた体が固まりました。

そしてその揺れが収まり、ようやく立ち上がることができました。
逃げようとドアのほうを見ると、予想していなかった光景が目に入りました。
ドアがなくなっていたのです。
ドアは隣りの部屋に通じているはずなのに、そこから見えたのはこの家の外壁でした。
どういうこと?
わたしは隣りの部屋の床が抜け落ちて、隣りの部屋が崩れてしまったんだと気づきました。
(でも、これは思い違いでした。
間違いに気づいたのは避難所に逃げてから10時間以上経ち、家族と話していたときです。)

実際には、自分たちの部屋が落下していたのです。

すると、小学生の姪っ子の叫び声が聞こえました。
「ケンちゃん!イクちゃん!
 早く助けて!
 開けてえ~!」

わたしは安堵しました。
子どもたちは生きている。

そして姉が助けを求めます。
「ケンちゃん、イクエー!
 子どもたちを、子どもたちをお願い!!
 早く来て!」

姉の夫は単身赴任中でいません。
下の部屋の寝室には姉と子どもたち2人だけです。

あとで聞いたところ、クローゼットの中のものが倒れていてドアを開けるのに苦労していたということでした。

姉は焦りながら続けます。
「ケンちゃん、早く!
 手伝ってー!」


わたしとケンゾーは叫び返しました。
「無理やけん!
 ここから出られん!」


わたしとケンゾーは全然脱出できていないのに、どうして姉はわたしたちに何度も助けを求めるのだろうと思いました。 

姉はわたしたちが早々、ふたりだけで外に逃げていたと思っていたそうです。
なぜなら2階の部屋に寝ているはずのわたしたちの声が、自分たちのすぐ近くで聞こえていたからです。
わたしとケンゾーの部屋が崩れ落ちて向こう側がむき出しになっていました。
わたしたちふたりが「1階、しかも外にいる」と姉が勘違いしていたのは無理もありません。

姉と子どもたちは生きているけど、母は大丈夫だろうか。
隣りの部屋で寝ていたはずの母の声がまったくしません。
でも、わたしたちの部屋が崩れ落ちているから、母の部屋とは隔離されていて物音がしなかったのです。

姉の声が響きます。
「だめ、そっちに行ったらだめ!
 ここで待ってて!」

子どもたちに叫んでいます。

姉は子どもたちを玄関まで連れていき、その場で待たせ、自分は着替えなどを準備していたようです。
あとになって姪っ子が話しました。
「弟と2人だけになったとき、ほんとに怖かった。
何かがずっと崩れている音がした。
メリメリメリメリ~って。」


姉たち家族がいた1階では、メリメリとかミシミシとか怖い音が続いていたそうです。

無事に姉も母親たちも外に逃げました。
家にいるのはわたしとケンゾーだけです。

南阿蘇は山々に囲まれていて標高も高く、4月とはいえ夜は冷え込みます。
わたしとケンゾーは逃げる前に、部屋にあった服を着込みました。
部屋には50センチ四方の小さな窓があり、そこから外にいる家族に向かって、手当たり次第服を投げ落としました。

「早くここから脱出せんと、ヤバい。
 もう時間の問題。
 崩れる前に出よう!」

ケンゾーが言いました。

「でも、どうやって?」

飛び降りるしかありません。

わたしたちの部屋は2階で、1階が車庫になっています。
部屋を支えていた柱は折れ、わたしたちの部屋は落下。
しかし、下に停めていた車に支えられていました。
なので、通常の2階よりも高さは低くなっていて、ドアのない出入り口から飛び降りられる高さでした。
でも、やっぱり飛び降りるのには勇気がいります。
下を見ると折れた柱がむき出しになっています。
布団や毛布を下に落とし、ケンゾーが先にジャンプしました。
私が下りるときはケンゾーが手伝ってくれました。

家族のところに駆け寄り、落とした布団や毛布に包まりました。

初めて外から家を見て、とてもショックでした。
こんなに崩れてるなんて。

ここがこんなに被害を受けてるんだから、熊本市はどうなってるんだろう。
もっとひどいことになってるんじゃないか。
呆然として、家を眺めていました。

姪っ子と甥っ子は泣いてはいませんでしたが、何が起きているのかわからず、怯えたような顔になっていました。
寒さからか怖さからか、姪っ子は「寒い寒い」と言って震えていました。

家の向かいの道路にはベンチが設置してありました。
わたしが甥っ子を膝に乗せて抱きかかえ、震える姪っ子を隣りに座らせました。
体をさすって「大丈夫だよ、大丈夫」と言ってあげることしかできません。

隣りの家には、お父さんとお母さん、娘さんが暮らしています。
でも、家から出てこられていません。

姉と母が、隣りの家に向かって大声で呼びかけました。
「大丈夫ですかあ?
 出てこられますかあ?」


すると家の中から奥さんと娘さんの声がしました。
「出られませーん!!
 お父さんが足をケガしています!」

姉が手伝いにいきました。

わたしたちが住んでいるところはリゾート地で、ほとんどの家が別荘として使われています。
わたしたちの家族のようにここに常駐し、暮らしている世帯はごくわずか。
さらに、そのほとんどがよそから移り住んできた人です。
南阿蘇の美しさに惚れ込み移住を決めた人たちで、私の家族もそうです。

だから昔からのつきあいというのはありません。
家の前で目が合ったら挨拶する程度。
南阿蘇村は田舎ですが、わたしたちが住んでいるエリアは田舎ならではの濃いつきあいというのはなく、都会でマンション暮らしをしている人たちのつきあい方にかえって似ています。

それなのに、そのときはなぜか我が家の前にみんなが集まってきたのです。
「怖かったですねー。」
「大丈夫でしたか。」

田舎なので家と家の間は都会のように接近していません。
でも、わざわざ歩いてきて我が家の前にやってきました。

姉と母とわたしは、交代で家の中に入っていきました。

姉は子どもたちの洋服と毛布を取りにいきました。

母は携帯電話を探しにいきました。
真っ暗ななかどこに携帯電話があるかわからないけれど、このときは大きな余震が何度も何度もきていたので、緊急地震速報が流れっぱなし。
そのため携帯の液晶のライトがついていて、携帯の在りかがわかったそうです。

わたしは長丁場になると思い、飲み物と食べ物を探しに行きました。
足の踏み場がない中、しゃがんで物をどかし、お菓子やシリアルを手当たり次第バッグに詰め込みました。
そしてなぜか床に2リットルのミネラルウォーターが転がっていました。
普段ミネラルウォーターなんて飲まないのに、なぜそこにあったのか。
あとで母に聞いたところ、実は前震のときに地震用の非常袋を作ったそうです。
リュックに水や食べ物などを入れて玄関に置いていたそうですが、前震から1日が経ち余震も来なくなって落ちついたので、バッグの中身を取り出して元に戻していたそうです。
もしそのリュックがあれば、それごと持ってこられました。
「大丈夫」と過信せず、いつも非常袋を用意しておかなければならないと思いました。

お菓子をバッグに詰め込んでいるとき、いつも甥っ子がいっしょに寝ているカメのぬいぐるみが床に転がっていたのが目につきました。
それももっていって、外で待つ甥っ子に渡しました。
安心した顔をしました。

姪っ子のほうは逃げるときに枕元に置いていたお気に入りのぬいぐるみを持ち出すことができましたが、甥っ子は探したけど見つけられなかったということでした。

大人にとってはどうでもいいものですが、子どもにとってはそれがあるのとないのとでは大違いです。
災害で逃げるとき、最低限必要なもののほかに、何かひとつでも子どもの好きなものを持ち出せたらと思います。

家の前ではみんながおろおろしています。
深夜なのでとても冷え込んでいます。
姉は取れるだけ毛布や布団を家から持ち出し、ご近所さんに貸しました。

「ほかに近所でここに滞在している人、いましたっけ?」
「あっちの家に、おばあちゃんが一人暮らしをしていたでしょう。」
「ああ、そうでしたね。
 大丈夫かなあ。」

「様子を見に行きましょうか。」

普段、ご近所づきあいなんてないけれど、このときのみんなは「チームワーク」という言葉がぴったりでした。

一人暮らしのおばあちゃんは、もう90歳。
けれど南阿蘇の風景が大好きになり、娘さんたちと離れてここで暮らしている人です。
ヨーロッパのおとぎ話に出てきそうなレンガ造りの三角屋根の家で、見事なガーデニングの庭があるかわいらしい家に住んでいます。
おばあちゃん自身も上品で小柄でかわいらしいのですが、そのおばあちゃんの姿がないのです。

住人たちが懐中電灯をもって、おばあちゃんを助けにいきました。
おばあちゃんは室内で1人で固まって身動きできない状態だったということですが、みんなに支えられて家を脱出することができました。

「どうしましょうか。」
「ここにいてもしょうがないですもんね。」
「どこか避難所みたいなところに行ったほうがいいでしょうか。」
「中学校の体育館がいちばん近いかもしれません。」
「でも、そこまでたどり着けるか・・・。」
「道が通れないかもしれない。」

真っ暗ななか、みんなで話し合いました。

すると、1人の男性が言いました。
「わたしの車は四駆なので、まずわたしが車を出して道の確認に行ってきます!」

男性は、怯えた顔をしている小さな息子さんを優しく抱きかかえたまま、車のほうに走っていきました。
10分ぐらいして、男性が戻ってきました。

「あそこのゴルフ場のところまで行ってみたんですが、そこまでは車は行けそうです。
移動しませんか?」


移動しようと言っても、我が家の車3台は潰れています。

「うちが車を2台出します。
 乗ってください!」

ご夫婦が、わざわざ2台出してくれました。

避難所までの道は、亀裂が入ったり陥没していたりと、ひどい状態になっていました。
わたしとケンゾーはおばあちゃんといっしょに、奥さんの車に乗せてもらいました。
陥没を避けるために、あぜ道に入り込んで運転しないといけないため、運転していた奥さんが不安になり、途中で運転をケンゾーが代わりました。

でも、みんないっしょだったので多少の無理ができました。
もし車が1台動かなくなっても、助けることができます。

避難所に着いたのは地震発生から2時間近く経っていたかもしれません。
この辺の時間の感覚はあやふやですが、我が家の前でみんなで呆然としたり話し合ったりしていたのでけっこう時間が経っていたと思います。
けれど、避難所にはまだほとんど人がきていませんでした。

役場勤めの姉は、深い溜め息をつき覚悟を決めたように、幼い子どもたちと別れ役場の方に消えていきました。

真っ暗なので、車の中で夜が明けるのを待ちました。
子どもたちはわたしの膝の上で寝ましたが、何度も緊急地震速報がなり、ラジオで「南阿蘇村」という単語が出るたびに、子どもたちは目を覚まし、不安そうな顔になりました。
助手席に座っているおばあちゃんは、体を背もたれにつけることもせず姿勢を正したまま、静かに泣き続け、涙を拭っていました。

近所の人たちがいなければ、わたしたちもおばあちゃんも現場に残されていたと思います。

なぜ我が家の前にあのときみんなが集まったのか。

我が家の前には、ベンチが3つほど並んでいて、ちょっと休憩できるようになっていました。
歩道が広くベンチがあることで「公共スペース」のような印象がみんなにあったのかもしれません。

いつもはそこに座っている人なんていません。
役に立っているスペースでは全然ありませんでした。
まさか、こんなときに役に立つとは思いませんでした。

だからどんな住宅地にも、そういうほんのちょっとした「公共スペース」があるべきだと実感しました。

それと、必要だと思ったのは近所の人とのおつきあいです。
都会だと大変ですが、深いつきあいでなくてもいいです。
顔がわかり、挨拶する程度でもいいと思います。
やっぱり人間はそういうとき「みんなで助け合う」という精神が生まれてきます。
そのときに顔見知りの関係であったら、助け合いがスムーズにいきます。
隣りにどんな人が住んでいるのかわからなければ、声をかけるのも助けを求めるのも難しくなります。

我が家は大きな被害を受けましたが、それでもこんなふうに家族全員元気にいまを過ごせていることは不幸中の幸いです。

失ったものは大きいですが、家族それぞれが被災という体験を糧にこれからを生きていければと思っています。
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一致

 東日本大震災を積極的にリポートされていて、その数年後、ご自身が被災された
のには何か運命的なものがあると思いませんか。

 結構多いんですよ、人生の先行指標となるものに実際に出くわしていることが。

超久しぶりです。

久方ぶりにコメントします。

今はお二人は福岡在住になったんですね。熊本の内陸部は震災の爪痕がまだ色こく残ってるようですね。前日、玉名や植木方面に行きましたけど北の方はそこまで深手はなかったですが。

僕は佐賀市に住んでますが人生最大の揺れを感じましたね。二階にいたので余計に揺れました。

いつかお二人にお会いして、世界一周の話含めてお聞きしたいものです。

ひょっとこして さま

なかなか味わい深く、おもしろいお名前ですね!

運命的なものを感じそうなんですけど、それが感じてないんです。

わたしたちが今回被災して感じたのは「わたしたちの住む場所も例外ではなかったんだ。日本に住んでいる以上、地震は他人事じゃないんだ」ということです。
運命とか、たまたまとか、そんなことではなくて「地震大国に住んでいるということ」そして「自分がいつ被災者になってもおかしくない」ということを強く実感しました。

長浜ラーメン さま

わー!
お久しぶりです。
お名前から、てっきり福岡にお住まいと思っていたので佐賀と聞いてびっくりしました。

イクエは生まれも育ちも玉名なんです。
玉名ラーメンは食べましたか?
玉名ラーメンと佐賀ラーメン、久留米ラーメンはルーツは同じだそうです。
だからわたしは長浜ラーメンよりも、実は佐賀ラーメンと久留米ラーメンのほうが好きです。
玉名も被害にあった家はいくつかあって、避難所も開設されていたようです。
でも、阿蘇から玉名に行くと「全然被災してない!別世界だ」と思いました。

いつかラーメンを食べながら、お話したいですね。
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