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ケンゾー   イクエ


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知らなかった異国の「日本」を知れた日

2015.05.26 08:00|パラグアイ☞EDIT
夫の顔のパーツをひとつひとつ見ると変だけど、唯一褒めてもいいところはまつ毛が濃くて長いことかなと思う、妻のイクエです。
でもそれも「さかまつげ」だけどね。
たま~にケンゾーが「かっこいいですよ」と人から言われて調子にのってるので「いや、そうじゃないやろ」と横から指摘しています。

パラグアイにあった日本、イグアス移住地。
ここは、わたしが思っていたよりも「日本」だった。

なぜこんな日本の裏側に、50年前に日本人たちがやって来たのか。
そしてどんなふうにして、ここの「日本」ができあがっていったのか。

それを教えてくれる資料館がある。

a_DSC_7891.jpg

この資料館は週に一日しか開館していない。
だけど、ここの鍵を「ペンション園田」のご主人が管理しているので園田さんにお願いして案内してもらうことにした。
入場は無料。
それぞれが別々に案内してもらうのも時間を取らせて悪いので、いっぺんに済むようにそのとき宿泊していた4人全員で向かった。

a_DSC_7895.jpg

園田さんは、元JICA職員。

JICAと言えば、ODAなど途上国支援をしている外務省所轄の独立行政法人。
イクエとケンゾーもアフリカでは何人もの海外協力隊員にホームステイさせてもらったり活動を見せてもらったりとお世話になってきた。

だけど、なぜ50年も前にパラグアイに移住してきた園田さんがそんなJICAの職員だったのか。
ちょっと不思議な感じがするかもしれない。

今でこそ途上国支援をしているJICAだけど、実は前身は海外移住事業団
国策として日本国民を海外に移住させようとしていた当時、移住の振興や相談、あっ旋、移住後の指導や援助などを行なうために作られた団体。

国の移住政策が下火になって、海外移住事業団のニーズがなくなったのか今のJICAへと移行していった。

パラグアイに移り住んだ園田さんは1972年に海外移住事業団の職員となったものの、その2年後にJICAに切り替わったのだそう。

a_DSC_7899.jpg

そんな園田さんだから、移住の歴史についてわかりやすく丁寧に説明してくださった。
資料館はそれほど大きくないけれど2時間半近く、お話を聞かせていただいた。

去年1年間でおよそ1500人もの旅行者に説明をしたのだそう。

移住の歴史を見ると、パラグアイよりも先にブラジルへの移住が進められた。
それが1908年。
パラグアイへの移住が始ったのが1936年。

1959年にはパラグアイ政府との間で移住協定が結ばれ、8万5000人の日本人の受け入れが決まった。
(ちなみにこの協定はまだ有効で、現在も日本人がパラグアイに移住することは他の国に比べてとても簡単らしい。首都のアスンシオンで泊まった日本人宿のオーナー夫妻は、この協定があるからパラグアイに住むことを決めたと言っていた。)

南米への移住が盛んになったのは戦後だけど、なぜそもそも移住政策が進められていったのか。
そして、なぜわざわざ故郷を離れ、見たこともない日本の裏側に移住しようと当時の人々は思ったのか。

園田さんが教えてくれた主な理由。

・第二次大戦で負けた日本社会。
 当時、疲弊していて生活が苦しかった。

・戦後引揚者が日本に戻ってきた。
 余裕のない社会だったけど彼らを受け入れ、ますます社会は厳しくなった。

・終戦間際に国力を高める目的で「子どもを増やそう計画」が行なわれていて当時の日本は人口増。

・多くの移住者のふるさとは厳しい自然環境だった。
 山間の小さな畑で細々と農業をやっていて、生きていくのが精一杯。
 将来の生活も約束されていなかった。
 新天地に望みをかけた。


現在、イグアス移住地には日系の200家族が住んでいて、そのうち70家族を高知、岩手、北海道出身者が占めるのだそう。

厳しい自然環境のなか痩せた土地や狭い畑でなんとか農業をやっていた人たち。
炭を作って売って生活していた人たち。

a_DSC_7900.jpg

園田さんがおっしゃった。

「それとね、九州も多いね。
 福岡、長崎・・・。
 どうしてかわかる?」

「わたしたち福岡出身です。
 どうしてでしょう?」


「福岡、長崎、それに加えて北海道。
 共通するものは?」

「うーん。」

「じゃあ、もっと言うと夕張、そして・・・。」
「あっ、わかりました!!
 炭坑があった場所ですね。
 福岡にも炭坑がたくさんありました。」


「その通り。
 かつて炭坑で豊かだった地区も、炭坑が閉鎖されて衰えていった。
 だから、人々は安定を求めて海外への移住を決めた。」


園田さんの話を聞いて、なんで50年も前にわざわざこんな遠い異国の、それも田舎にやってきたんだろうというわたしたちの疑問が解消されていった。

a_DSC_7907.jpg

資料館に展示してあったパスポート。
12歳の園田さんが母親と写っている。
鹿児島で生まれ育った園田さん。
1962年、両親と7人の兄弟の家族9人で、日本からパラグアイに移住した。

a_DSC_7909.jpg

「3月8日に鹿児島を出発して、神戸に向かった。
 神戸に移民センターがあってね。
 そこで14日間待機。
 神戸を出発したのは4月2日だった。
 アルゼンチンのブエノスアイレスに着いて、そこからパラグアイまでは列車で移動。
 5月28日にやっと到着したから、鹿児島を出て80日間もかかったことになる。」

園田さんのときは船代も列車代も政府が立て替えてくれたものの、移住してからその借金を返済しないといけなかったらしい。

船内はとても狭く環境はとても悪かったようだ。
とくに環境の悪い船底になぜか沖縄県人が詰め込まれたらしい。

「これは沖縄の人が差別されてたからだと思うね。
 当時はまだアメリカ領だったでしょ。」

つらい船の長旅。

当時の人たちはどんな思いで船に乗っていたのか。
でも、不安よりも期待が大きかったと思う。
日本で将来を見いだせないから、外国の大地で未来を切り拓こうとした人たち。

ここイグアス移住地は、パラグアイの第2の都市シウダー・デル・エステからほど近い。

「『パラグアイの大きな都市からわずか数十キロのところに住めます』って言われて来たんだよ。
当時外国のテレビもほとんど放送されないし、もちろんネットもない。
外国の都市で唯一イメージできるのはニューヨーク。
だから外国の都市って言われてニューヨークみたいな大都市を想像した。
ビルが建ち並んで。
でも、着いてみたらぜんぜん違う。
30年間電気がない地区もあったんだよ。」


a_DSC_7902.jpg

夢を抱いて、故郷や友人を捨て、2か月半以上かけてたどり着いた永住地。
そこは、ただのジャングルだった。

着いてその場所を見るなり「あ〜、失敗したー!やられたー!」と思った人も多かったらしい。

『肥料を使わなくてもすくすく野菜が育ちます』
『果物がたくさん実っていて食べ物に困りません』

そう言われて、夢のような大地を想像していた人たち。
目の前の景色はまったく違うものだった。

土地は日本政府から買うシステムだったのだそう。
頭金を払って借金をしているので、なんとかして畑を作り収入を得ないといけない。
道路の整備費や診療所建設のための投資金も徴収された。

ジャングルの木を倒し、火をつけて畑を作っていった。
信じられないことにヒョウなどの猛獣もたくさんいたという。

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イグアスの滝の周辺は今もジャングルが残っていて、当時のイグアス移住地もそことそっくりな状況だったそう。
後日イグアスの滝に行ったときに撮影したジャングルがこれ。

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木々が生い茂りうっそうとしている。
ここを人力で切り開いて畑を作るなんて想像できない。

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それが今では地平線まで続く畑が広がっている。

一家族が所有する畑は、当初は多くても30ヘクタールだった。
パラグアイでの厳しい暮らしのため帰国した人や隣国に移動した人もいた。
そういう人たちから、とどまり続けた移住者たちは用地を譲り受けたりした。
いまイグアス移住地の一家族の栽培面積は300ヘクタールにも及ぶのだそう。

努力で手に入れた大地と生活。

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移住者たちはメロンやキャベツ、トマトなどの栽培に取り組んでいった。
パラグアイの土地にあっていて育てやすく、それが今ではパラグアイ人の小農家に広まっている。
パラグアイに貢献していると園田さんはおっしゃっていた。

資料館には古い農機具も展示されている。

a_DSC_7914.jpg

資料館にはほかにも懐かしの品物が。
日本には二度と帰らない覚悟で、見知らぬ国へと向かった人々。
日本を発つとき、人々は何を持っていったか。

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お釜やちゃぶ台、食器。

異国でも日本と同じ生活がしたい。
当時の人々の思いが伝わってくる。

あれもこれもといういわけにはいかない。
限られたものしかもっていけなかった。
そんな状況のなか、こんなものを持ってきた人も。

a_DSC_7912.jpg

五右衛門風呂!
こんな鉄の重いものを。

でも、日本人にとってお風呂は欠かせないからその気持ちわかる!

日本を離れて2年半以上が経つわたし。
和食が恋しくなってホームシックになることがある。

園田さんに尋ねた。
「日本を離れてこっちに来たとき、手に入る食材も違うじゃないですか。
和食が食べたい、あれが食べたいって苦しくなることはありませんでした?」

「そんなのはなかったね。
和食が恋しいとかいう以前に、なんでもいいからお腹いっぱいになりたいっていうのが先だったもの。」


言われてみたら納得する。
毎日食べていくのも苦しいなかで、異国への移住を決断したのだ。
そして移住してからもしばらくは空腹との闘いが続いていた。

わたしは今、日本を離れて長い間旅をしているけれど、いずれ日本に帰ることができる。
50年も前に何の情報もない異国へ移住するのとはわけが違う。

慣れ親しんだ故郷を捨てるということ。
親戚や仲のいい友人たちとも二度と会えない。
異国で何が待ち受けているのか、どんな文化なのか、どんな人たちが住んでいるのかもわからない。

移住者の人たちの覚悟はすごいものだったと思う。

でも、家族といっしょだからできたのかもしれない。

しかし、こういう人たちもいた。

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花嫁移住者

パラグアイに移住した若い男たちのために、年頃の女性たちが単独で海を渡った。
家族と別れ、故郷を捨て、二度と日本に戻らない覚悟で。

どんな男の人と結婚することになるのかもわからない。
孤独だ。

わたしには到底まねできない。

でもそんな若い女性たちが異国の地で、初めて会う移住者たちと結ばれ、共に苦労をわかち、子どもを育て、そしていま孫に囲まれて幸せに暮らしている。

資料館の奥にはこっちでつくられた太鼓や神輿も飾ってあった。
毎年、夏祭りを開いているのだそう。
夏と言ってもこっちでは12月だけど、それでも日本文化を大切にしながら暮らしている。

夜、ペンション園田で焼き肉パーティーが開かれた。
お肉や園田家手作りのおかずをいただく。

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焼き肉は日本と違って薄切り肉じゃなく、骨付き肉の塊。
それを豪快に焼いていく。
これがパラグアイ式。

骨つきのまま、いただきます!

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お肉はパラグアイ風だけど、サイドメニューはまさに日本!
のり巻きおにぎりはもちろん、キュウリの浅漬けも。

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大人たちが食べている脇で、園田家のお孫さんがはしゃいでいる。
元気に笑っていたと思えば、転んで泣いたり。

「ほら〜、そっちに行かないよ!ダメでしょ!!」
「ちゃんと食べなさい。」
「お肉食べる?
 こっちにおいで、おしいよ。」

大人たちがあたりまえのように日本語で𠮟ったり、なだめたりしている。

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この日は園田のご主人のお兄さんがお友だちと遊びにやってきていた。
お兄さんは最初は園田さんとパラグアイに来たけれど、その後日本に戻って勉強し直し、今度はブラジルに移住したのだそう。
健康食品などを輸出販売する会社を経営されている。
ブラジル日系人の経済界の重鎮なんだとか。
ブラジルや日本の大物政治家と会談することもあるらしい。

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園田さん兄弟の会話が印象的だった。

「なんでおやじは、こんなところに家族みんな連れて渡ってきたのかなあって最初は思ったよ。
憎むとまでは言わないけどね。
こんな何もないところで、なんでみんなで苦労しなきゃいけなかったのか。
俺は日本のほうが良かった。」

そうおっしゃるお兄さんに、園田さんはこう言われた。

「でも、ここに出てきたから今の兄貴があるんだよ。
ブラジルで成功してる。
日本の元首相とも飯を食う仲じゃないか。
俺たちあのまま鹿児島にいたら、せいぜい小さな農家のままだった。
いまごろ、どうなっていたかわからないよ。」

「それもそうだな。
あはははは。」


食事のあと、息子さんがわたしたちをドライブに連れて行ってくれた。

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頭上の満月が、移住者たちが開墾した土地を優しく照らす。

星々が、この土地を祝福しているように輝いている。

小さなフクロウと何度も遭遇する。

日中温められた池の水が、夜の冷気のなか幻想的に湯気を立てている。

「ここで魚も釣れるんです。
 それをすり身にして薩摩揚げを作ったり。」

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こんな場所がパラグアイにあるなんて知らなかった。
日本人の努力と生活の知恵がいっぱいの、なんて豊かな場所なんだろう。
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Comment

いつも素敵なブログをありがとうございます(^o^)
毎日読んでます、応援してます(^o^)

No title

良い記事だった

No title

私たちが行ったときは園田さんは出張(?)か何かで全然お会いできなかったから、このブログをすごく興味深く読ませてもらったよー!いつも丁寧な記事書いてくれてありがとう!

ほんとうに当時の日本人の苦労は計り知れないよね。
特に、和食が恋しくなるかどうかの下りのところが、ぐっときたよ。

mikaさま

こちらこそ読んでいただいて、応援していただいて、ありがとうございます。
いっしょに、ワクワクや感動を味わっていただけたらうれしいです!
これからもよろしくお願いします。

Re: No title

ありがとうございます。
これからもそう言われる記事を書いていきたいです。

きっこちゃん

学校見に行ったんだねー。
羨ましい。
あと、鉱山も。
一週間もいたのにダラダラしていたから、もっと積極的に出歩けばよかったなあとちょっと後悔。

それにしても、サンパウロの日本人街すごいね。
びっくりしたよ。
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