世界旅行をしていたときの1年より、日本で過ごす1年の方が過ぎるのが早いと感じるイクエです。
どうしてかなあ。
毎日同じような日々を送っているからか、みんな忙しいからか、四季があるからか。
いつのまにか月日が流れているから、「いつまでにこれをしよう!」という目標をこまめに立てて生活した方がいいのかな。
3年5か月の世界一周の旅を終えて、日本に帰ってきたイクエとケンゾー。
その日は福岡のケンゾーの実家に泊まった。
そして次の日、高速バスでイクエの実家の熊本に向かう。
バックパックを背負って歩くのがあんなに自然だったのに、福岡の繁華街、天神のど真ん中で夫婦二人でバックパックを背負って歩くのはとても違和感を感じる。
それになんだか恥ずかしさも感じる。

福岡の街並みは以前と変わらなかったけれど、路線バスの車内では電光掲示板で英語、ハングル、中国語の案内が流れ、バスターミナルには外国語対応の案内窓口ができていた。
2020年の東京オリンピック開催が決まったのは、わたしたちが旅に出た1年後の2013年9月のことだった。
地方都市の福岡も、この数年で外国人観光客を意識した街づくりが行われていることに驚いた。
熊本インターの手前で高速バスを降りると、母が迎えに来てくれていた。

(のちにこの車は、母から譲ってもらうことになるんだけど、それからすぐの熊本地震のときにイクエとケンゾーの寝室の下敷きになって廃車になってしまった・・・。
これからご紹介する写真は、今となってはわたしたちにとって懐かしいもの。)
母と会うのは、家族がわたしたちに会いにフランスに来てくれて以来。
2年ぶり。
「ただいまー」
「おかえりー」
世界一周という冒険を終えた娘と、それを待つ母の感動の再会。
という雰囲気ではまったくない。
涙や感動はなく、日常の一コマのような感じだった。
強いて言えば、お盆休みに帰省した娘が母に迎えに来てもらったって感じだろうか。

実家へ向かう道も、特に懐かしいという感じはしない。
3年5か月ぶりなのに、そんな感じが一切しないのが不思議。
だけど今、この写真は懐かしいものとなった。
この写真は阿蘇大橋の手前で対岸を写したもの。
地震で橋が崩壊し、今はもうこの道を通って実家には行けないから。

3年5か月の旅行中、わたしとケンゾーは一度も帰国しなかった。
代わりに1年目と2年目の年末年始に家族がわたしたちに会いに来てくれた。
台湾とフランス。
さらに母はバックパックを担いでウズベキスタンまで単独で会いに来てくれた。
3年5か月の世界一周の旅で後悔していることはほとんどないけど、もっとも後悔しているのは母との旅行。
当時ウズベキスタンは、三人全員がダウンしてしまうほどの酷暑だった。
それなのに旅に出てまだ1年のイクエとケンゾーは、バックパッカーの意地みたいなものに囚われ、心に余裕もなく、ストイックな旅をしていて、その旅のスタイルに高齢の母を付き合わせてしまった。
今思えば、あんなどうでもいいこだわりなんて捨てればよかったと思う。
せっかく母が来てくれたんだから、その時ぐらい豪華なホテルを予約すればよかったし、おいしいレストランをリサーチして連れて行けばよかった。
行き当たりばったりの過酷な安上がりの旅に、母を付き合わせてしまった。
それ以前に、1年でもっとも暑い時期の砂漠の国ウズベキスタンに来てもらったことが、配慮がなかった。
それなのに母は「辛い」とか「きつい」とか「来ないとよかった」なんて一言も言わなかった。
代わりにこう言っていた。
「二人の旅行スタイルを体験できたことがよかった。
イクエとケンちゃんはこんな風にがんばって旅行してるんだなーってわかった。
だから、二人が必死になってやり遂げようとしてる旅行を応援せんといけんなって思えた」
ウズベキスタンでの旅行は、この3年5か月の世界一周中の後悔というよりも、わたしの人生における数少ない後悔の一つだ。
やり直せることならやり直したい。
実家では甥っ子がケンゾーの帰りを待っていた。
「ケンちゃーん!
キャッチボールしよー!」

フランスに来たときは、ほとんど母におんぶされていた甥っ子も、まもなく小学1年生を迎えようとしている。
大人の3年5か月と、幼い子の3年5か月は時間の流れ方がまったく違う。
この子の人生の半分以上、わたしたちは外国をふらついていたのに、甥っ子はわたしたちのことを忘れず、身内として自然に受け入れている。
これも、母や姉がわたしたちのことを話し、身近に感じさせてくれていたからだと思う。
ちょうどこの日は姪っ子の10歳の誕生日。
誕生日とわたしたちの無事の帰国をみんなでささやかにお祝い。
姉は、ケーキ屋さんにケーキを注文してくれていた。
姪っ子の好きなキャラクター、スヌーピーが地球儀の上に乗っている。

実家ではのんびりと過ごした。
それはまるで帰省して家族水入らずのお正月を過ごすような感じだった。
「旅行どうだった?」「どの国が楽しかった?」そんな会話はない。
旅行の話はせず、家族の会話に上るのは、姪っ子の学校生活、甥っ子の好きな遊び・・・。
わたしたちも特別旅行の話をしたいとも思わない。
普通の団欒。
それが家族なのかもしれない。
旅行中もお寿司を食べる機会はあったけど、さすがにプラレールの回転寿司はなかった。
食べるのが、少々面倒臭い。


地震で実家がなくなったので、この写真ももはや懐かしい。
わたしたちが会いたかったのは、この家族だけではない。
チワワのホタテ。
わたしたちふたりが飼っていたんだけど、旅行中実家で面倒をみてもらっていた。
旅行中、死んでしまうかもしれない。
そう覚悟もしていたけれど、母が一生懸命お世話をしてくれた。
イクエとケンちゃんに会わせるまでは、何としても生きてもらわないと。
母はその一心で、病院に何度も連れて行ったり、ヨボヨボのホタテの散歩に根気強く付き合ったりしていた。
母がわたしたちの帰りを心待ちにしていたのは、せっかくかろうじて命をつないでいるホタテがいつ亡くなってしまうかわからない状況だったから。
「一刻も早く帰ってきなさい」
そう言う母の言葉は、気ままに旅をしているわたしたちにはうっとうしく、また帰国後の生活設計が立たないわたしたちには、耳の痛い言葉だった。
だからわたしたちは「もうちょっと長く旅をさせてよ」と母にわがままを言っていた。
ホタテはわたしとケンゾーが想像していたよりもはるかに老化が進んでいた。
そんなホタテと対面し、母の切実な訴えがようやく理解できた。
ホタテは白内障が進んでいて、わたしたちを認識できないようだった。
テラスにぽつん。
ずーっと日向ぼっこしている。
ネコみたい。


室内ではストーブの前が特等席。
ホタテと再会できたことは母のおかげだ。

あんなに好きで、ぐいぐいとリードを引っ張って歩いていた散歩。
今ではヨタヨタと足元がおぼつかず、ときどき足が曲がって転んでしまう。
「がんばれ!ほら、ここまでおいで!」
声をかけながら、少しの距離を長い時間をかけて散歩させた。
その時間はわたしとケンゾーにとって忘れられない時間となった。
ホタテは愛おしかった。
帰国して1か月。
朝起きると、ホタテは息を引き取っていた。
穏やかな顔をしていた。
わたしたちの帰りを待ってくれていたみたいだった。

最後にロストバゲージした荷物は、帰国10日後、無事に実家に届けられた。
海南航空なんて全然知らなかった航空会社を利用したから、どうなることかと思っていたけど、最終的にはANAだったかJALだったかの東京のスタッフから連絡があって、丁寧な対応をしてくれた。

このバッグに入れていたのは、服や洗面用具のほか、料理道具と食材。
わたしたちはどんなところでも、できるだけ自炊していたからいつも大量のものを持ち歩いていた。
ホーロー鍋に電気コンロ、ナイフやフォーク。
砂糖や塩、オリーブオイル、にんにくパウダー。
ほんだしや醤油といった和食の調味料。
洗剤やお茶っ葉。
中のものは何一つ盗られていなかった。
けれどバッグの中には、一枚の紙が入っていた。
アメリカの空港で入れられたものだった。
英語で書かれていた文章には「この荷物を不審物と見なし、中のものをチェックいたしました」。
たしかにね。
アメリカ人にとって、本だしとか、なんか変なクスリかと思うよね。
粉末や液体をたくさん入れてたし、アメリカ人にとっては馴染みがないものも入っていたから、調べるのに時間がかかって、フライト時間に間に合わなかったんだろう。
さらにベネズエラで買ったこのバッグは、外のポケットのファスナーが壊れたから糸で雑に縫って使っていた。
その部分が切られていた。
中にいかがわしい何かを隠して、縫っていると疑われたのだろう。

冷静になって考えると、こんなに怪しい荷物はない。
なんだか、申し訳ない。
荷物に入れていたみんなへのお土産ももちろん無事。
ベネズエラのコーヒー、メキシコのヤギ乳のキャラメルソース、ロサンゼルスで最後に買ったお菓子。

そして、わたしたちの元に戻ってきた荷物はそれだけではなかった。
帰国してとりあえず身を寄せていた実家から、イクエとケンゾーが福岡で家を探し、そこに引っ越す日の前日のこと。
いよいよ新生活をスタートしようしていた矢先のこと。
夜8時にチャイムが鳴った。
わたしはその時二階にいた。
一階から「うわー!」「あははは」という歓声と拍手が聞こえた。
「イクちゃーん」姪っ子の呼ぶ声が聞こえる。
なんだろうと下に行ってみると、白いダンボールをみんなが囲んでいた。
その箱に見覚えがあった。
それは、半年前、ベネズエラから送った荷物だった。
経済破綻しているベネズエラから送った10キロの荷物は、郵送費およそ135円。
「安いからお土産をたくさん買って、ついでにもういらないものも入れて送っちゃえ」と送ったのはいいけれど、日本の母からは「荷物まだ届かないよー」と言われていた。
そしてわたしたちが日本に帰ったのに、荷物だけが来ない。
政情不安だし、どこかで職員が仕事を放棄したか、途中で誰かに盗まれたんだろうな。
もう、諦めていた。
それが届いたのだった。
しかもそのタイミングが、わたしたちが熊本を離れ福岡での生活をスタートする前日の夜だなんて。
「すごいねぇ」
「しかもこのタイミング」
家族で興奮して話していると、母が言った。
「はー。
これで、ふたりの旅もようやく終わったって感じね」
確かにそうだった。
わたしたちは無事に帰国したのに、荷物はまだ旅を続けていた。
その荷物が届き、なにも思い残すことなく、わたしたちの旅はきれいに終わりを迎えた。
そして、新生活が始まる。
長い長いふたりのバケーションが幕を閉じた。
たくさんの思い出を胸に、歩き出そう。
(これまでふたりの長旅におつきあいくださってありがとうございました。
旅のまとめや現在の二人のことをあと数回お伝えしたあと、世界一周のブログランキングを抜けます。その後も細々とブログは続けていく予定です。気が向いたときや暇でしょうがないとき、このブログをまた覗いていただけたら幸いです。
ズボラなふたりがブログをなんとか続けられたのは、本当にみなさんのおかげでした。)
どうしてかなあ。
毎日同じような日々を送っているからか、みんな忙しいからか、四季があるからか。
いつのまにか月日が流れているから、「いつまでにこれをしよう!」という目標をこまめに立てて生活した方がいいのかな。
3年5か月の世界一周の旅を終えて、日本に帰ってきたイクエとケンゾー。
その日は福岡のケンゾーの実家に泊まった。
そして次の日、高速バスでイクエの実家の熊本に向かう。
バックパックを背負って歩くのがあんなに自然だったのに、福岡の繁華街、天神のど真ん中で夫婦二人でバックパックを背負って歩くのはとても違和感を感じる。
それになんだか恥ずかしさも感じる。

福岡の街並みは以前と変わらなかったけれど、路線バスの車内では電光掲示板で英語、ハングル、中国語の案内が流れ、バスターミナルには外国語対応の案内窓口ができていた。
2020年の東京オリンピック開催が決まったのは、わたしたちが旅に出た1年後の2013年9月のことだった。
地方都市の福岡も、この数年で外国人観光客を意識した街づくりが行われていることに驚いた。
熊本インターの手前で高速バスを降りると、母が迎えに来てくれていた。

(のちにこの車は、母から譲ってもらうことになるんだけど、それからすぐの熊本地震のときにイクエとケンゾーの寝室の下敷きになって廃車になってしまった・・・。
これからご紹介する写真は、今となってはわたしたちにとって懐かしいもの。)
母と会うのは、家族がわたしたちに会いにフランスに来てくれて以来。
2年ぶり。
「ただいまー」
「おかえりー」
世界一周という冒険を終えた娘と、それを待つ母の感動の再会。
という雰囲気ではまったくない。
涙や感動はなく、日常の一コマのような感じだった。
強いて言えば、お盆休みに帰省した娘が母に迎えに来てもらったって感じだろうか。

実家へ向かう道も、特に懐かしいという感じはしない。
3年5か月ぶりなのに、そんな感じが一切しないのが不思議。
だけど今、この写真は懐かしいものとなった。
この写真は阿蘇大橋の手前で対岸を写したもの。
地震で橋が崩壊し、今はもうこの道を通って実家には行けないから。

3年5か月の旅行中、わたしとケンゾーは一度も帰国しなかった。
代わりに1年目と2年目の年末年始に家族がわたしたちに会いに来てくれた。
台湾とフランス。
さらに母はバックパックを担いでウズベキスタンまで単独で会いに来てくれた。
3年5か月の世界一周の旅で後悔していることはほとんどないけど、もっとも後悔しているのは母との旅行。
当時ウズベキスタンは、三人全員がダウンしてしまうほどの酷暑だった。
それなのに旅に出てまだ1年のイクエとケンゾーは、バックパッカーの意地みたいなものに囚われ、心に余裕もなく、ストイックな旅をしていて、その旅のスタイルに高齢の母を付き合わせてしまった。
今思えば、あんなどうでもいいこだわりなんて捨てればよかったと思う。
せっかく母が来てくれたんだから、その時ぐらい豪華なホテルを予約すればよかったし、おいしいレストランをリサーチして連れて行けばよかった。
行き当たりばったりの過酷な安上がりの旅に、母を付き合わせてしまった。
それ以前に、1年でもっとも暑い時期の砂漠の国ウズベキスタンに来てもらったことが、配慮がなかった。
それなのに母は「辛い」とか「きつい」とか「来ないとよかった」なんて一言も言わなかった。
代わりにこう言っていた。
「二人の旅行スタイルを体験できたことがよかった。
イクエとケンちゃんはこんな風にがんばって旅行してるんだなーってわかった。
だから、二人が必死になってやり遂げようとしてる旅行を応援せんといけんなって思えた」
ウズベキスタンでの旅行は、この3年5か月の世界一周中の後悔というよりも、わたしの人生における数少ない後悔の一つだ。
やり直せることならやり直したい。
実家では甥っ子がケンゾーの帰りを待っていた。
「ケンちゃーん!
キャッチボールしよー!」

フランスに来たときは、ほとんど母におんぶされていた甥っ子も、まもなく小学1年生を迎えようとしている。
大人の3年5か月と、幼い子の3年5か月は時間の流れ方がまったく違う。
この子の人生の半分以上、わたしたちは外国をふらついていたのに、甥っ子はわたしたちのことを忘れず、身内として自然に受け入れている。
これも、母や姉がわたしたちのことを話し、身近に感じさせてくれていたからだと思う。
ちょうどこの日は姪っ子の10歳の誕生日。
誕生日とわたしたちの無事の帰国をみんなでささやかにお祝い。
姉は、ケーキ屋さんにケーキを注文してくれていた。
姪っ子の好きなキャラクター、スヌーピーが地球儀の上に乗っている。

実家ではのんびりと過ごした。
それはまるで帰省して家族水入らずのお正月を過ごすような感じだった。
「旅行どうだった?」「どの国が楽しかった?」そんな会話はない。
旅行の話はせず、家族の会話に上るのは、姪っ子の学校生活、甥っ子の好きな遊び・・・。
わたしたちも特別旅行の話をしたいとも思わない。
普通の団欒。
それが家族なのかもしれない。
旅行中もお寿司を食べる機会はあったけど、さすがにプラレールの回転寿司はなかった。
食べるのが、少々面倒臭い。


地震で実家がなくなったので、この写真ももはや懐かしい。
わたしたちが会いたかったのは、この家族だけではない。
チワワのホタテ。
わたしたちふたりが飼っていたんだけど、旅行中実家で面倒をみてもらっていた。
旅行中、死んでしまうかもしれない。
そう覚悟もしていたけれど、母が一生懸命お世話をしてくれた。
イクエとケンちゃんに会わせるまでは、何としても生きてもらわないと。
母はその一心で、病院に何度も連れて行ったり、ヨボヨボのホタテの散歩に根気強く付き合ったりしていた。
母がわたしたちの帰りを心待ちにしていたのは、せっかくかろうじて命をつないでいるホタテがいつ亡くなってしまうかわからない状況だったから。
「一刻も早く帰ってきなさい」
そう言う母の言葉は、気ままに旅をしているわたしたちにはうっとうしく、また帰国後の生活設計が立たないわたしたちには、耳の痛い言葉だった。
だからわたしたちは「もうちょっと長く旅をさせてよ」と母にわがままを言っていた。
ホタテはわたしとケンゾーが想像していたよりもはるかに老化が進んでいた。
そんなホタテと対面し、母の切実な訴えがようやく理解できた。
ホタテは白内障が進んでいて、わたしたちを認識できないようだった。
テラスにぽつん。
ずーっと日向ぼっこしている。
ネコみたい。


室内ではストーブの前が特等席。
ホタテと再会できたことは母のおかげだ。

あんなに好きで、ぐいぐいとリードを引っ張って歩いていた散歩。
今ではヨタヨタと足元がおぼつかず、ときどき足が曲がって転んでしまう。
「がんばれ!ほら、ここまでおいで!」
声をかけながら、少しの距離を長い時間をかけて散歩させた。
その時間はわたしとケンゾーにとって忘れられない時間となった。
ホタテは愛おしかった。
帰国して1か月。
朝起きると、ホタテは息を引き取っていた。
穏やかな顔をしていた。
わたしたちの帰りを待ってくれていたみたいだった。

最後にロストバゲージした荷物は、帰国10日後、無事に実家に届けられた。
海南航空なんて全然知らなかった航空会社を利用したから、どうなることかと思っていたけど、最終的にはANAだったかJALだったかの東京のスタッフから連絡があって、丁寧な対応をしてくれた。

このバッグに入れていたのは、服や洗面用具のほか、料理道具と食材。
わたしたちはどんなところでも、できるだけ自炊していたからいつも大量のものを持ち歩いていた。
ホーロー鍋に電気コンロ、ナイフやフォーク。
砂糖や塩、オリーブオイル、にんにくパウダー。
ほんだしや醤油といった和食の調味料。
洗剤やお茶っ葉。
中のものは何一つ盗られていなかった。
けれどバッグの中には、一枚の紙が入っていた。
アメリカの空港で入れられたものだった。
英語で書かれていた文章には「この荷物を不審物と見なし、中のものをチェックいたしました」。
たしかにね。
アメリカ人にとって、本だしとか、なんか変なクスリかと思うよね。
粉末や液体をたくさん入れてたし、アメリカ人にとっては馴染みがないものも入っていたから、調べるのに時間がかかって、フライト時間に間に合わなかったんだろう。
さらにベネズエラで買ったこのバッグは、外のポケットのファスナーが壊れたから糸で雑に縫って使っていた。
その部分が切られていた。
中にいかがわしい何かを隠して、縫っていると疑われたのだろう。

冷静になって考えると、こんなに怪しい荷物はない。
なんだか、申し訳ない。
荷物に入れていたみんなへのお土産ももちろん無事。
ベネズエラのコーヒー、メキシコのヤギ乳のキャラメルソース、ロサンゼルスで最後に買ったお菓子。

そして、わたしたちの元に戻ってきた荷物はそれだけではなかった。
帰国してとりあえず身を寄せていた実家から、イクエとケンゾーが福岡で家を探し、そこに引っ越す日の前日のこと。
いよいよ新生活をスタートしようしていた矢先のこと。
夜8時にチャイムが鳴った。
わたしはその時二階にいた。
一階から「うわー!」「あははは」という歓声と拍手が聞こえた。
「イクちゃーん」姪っ子の呼ぶ声が聞こえる。
なんだろうと下に行ってみると、白いダンボールをみんなが囲んでいた。
その箱に見覚えがあった。
それは、半年前、ベネズエラから送った荷物だった。
経済破綻しているベネズエラから送った10キロの荷物は、郵送費およそ135円。
「安いからお土産をたくさん買って、ついでにもういらないものも入れて送っちゃえ」と送ったのはいいけれど、日本の母からは「荷物まだ届かないよー」と言われていた。
そしてわたしたちが日本に帰ったのに、荷物だけが来ない。
政情不安だし、どこかで職員が仕事を放棄したか、途中で誰かに盗まれたんだろうな。
もう、諦めていた。
それが届いたのだった。
しかもそのタイミングが、わたしたちが熊本を離れ福岡での生活をスタートする前日の夜だなんて。
「すごいねぇ」
「しかもこのタイミング」
家族で興奮して話していると、母が言った。
「はー。
これで、ふたりの旅もようやく終わったって感じね」
確かにそうだった。
わたしたちは無事に帰国したのに、荷物はまだ旅を続けていた。
その荷物が届き、なにも思い残すことなく、わたしたちの旅はきれいに終わりを迎えた。
そして、新生活が始まる。
長い長いふたりのバケーションが幕を閉じた。
たくさんの思い出を胸に、歩き出そう。
(これまでふたりの長旅におつきあいくださってありがとうございました。
旅のまとめや現在の二人のことをあと数回お伝えしたあと、世界一周のブログランキングを抜けます。その後も細々とブログは続けていく予定です。気が向いたときや暇でしょうがないとき、このブログをまた覗いていただけたら幸いです。
ズボラなふたりがブログをなんとか続けられたのは、本当にみなさんのおかげでした。)