家族はもちろん、いとこのなかでも末っ子なので、子どものころはたくさんお年玉をもらっていたイクエです。
すでにいとこたちは就職していたから、もらえたの。
いつか恩返ししなきゃ。
ベネズエラに不法入国して捕まってしまったわたしたち。
ほんとうなら、今ごろマラカイボのエアコンの効いたホテルでぐっすり眠っているはずでした。
経済破綻しているベネズエラではわたしたちバックパッカーでも大金持ちになれます。
きのうの夕食は、おいしい中華料理か和食のはずだったのに、この独房のような場所で持っていた食べ物をつまむことしかできませんでした。
予想していたものと真逆の体験を突きつけられ、ショックは2倍です。
じっとりと汗ばむ室内。
ウトウトはできても、すぐに目が覚めて起き上がる。
これを何度か繰り返し、ようやく夜が明けました。
いま思えば、電源はあったのでパソコンで時間を潰せばよかったと思います。
インターネットはできないけど、ブログを書いたり、動画を見たり。
でも、そんな気分に全然なれませんでした。
ただひたすら耐えて、時間が過ぎるのを待つことしかできませんでした。
だって、わたしたちは囚人ですから。
まだ外は静かです。
どうせ監禁されて何もすることがないので、そのまま体を横たえて目をつぶりました。
すると誰かが入ってきました。
「おい、ズボンを履きなさい。」
その声でケンゾーは起こされ、あわてて服を着ます。
真っ暗で見えなかった室内。
独房のようにしか思えませんでしたが、明るくなって見てみるとそこまで悪い場所ではなさそうです。
施錠されていたドアの柵が開けられると、職員たちが出たり入ったりするようになりました。
検問所で働く職員たちの休憩室のようです。

ああ、バケツでおしっこをせずにすんだ。
わたしはホッとしました。
人権を保つことができたのです。
汗をかきすぎたため、わたしもケンゾーも強い尿意をもよおさずにすんだのです。
トイレをしたいと言うと、「裏に行け」と言われました。
ドアの柵は開けられたけど、小屋のまわりはフェンスで囲まれているのでフェンスから外に出ることはできません。
ドアから出て、フェンスの内側、小屋の裏の何もないところで、しゃがんで用を足しました。
メイクをしなきゃ。
顔は汗まみれですが、ファンデーションを塗り直し、アイメイクをしました。
こんな環境の中でも小綺麗にすることで、人間らしくあれる気がして。
それに身なりをきちんとしていたほうが、扱いが丁寧になるかもしれません。
ワンピースに着替えようかとも思いましたが、それはやり過ぎだと思い、服はそのままです。
セニョール・サイメがやってきました。
「わたしたちはどうなるのでしょう?
いつまでここで待てばいいんですか?」
セニョール・サイメはきのうと同じことを繰り返しました。
「午前8時に上司がやってくるから。
それまでそこにいなさい。」
「わたしたち、きのうからほとんど何も食べてないんです。
どこかで食料を買うことはできませんか。
近くにお店はないですか。」
「ない。
ちょっと待ってろ。」
セニョール・サイメは、きのうは厳しい顔をしていたけれど、今朝は少し柔和な顔つきになっているように思えました。
セニョール・サイメは雑用係の男性と女性に、何か指示しました。
朝食を作るように言っているようでした。
しばらくして、青いプラスチックのボウルにふたり分のスプーンが突き刺さったものが運ばれてきました。
食事をもらえるということはありがたいことではありますが、それはまるで囚人の食事のように見えました。

お腹はペコペコなのに、まるで食欲がわかない食べ物。
ケンゾーがもっとも不得意とする食事です。
ケンゾーは外国人旅行者がゲストハウスでコーンフレークやオートミールを食べているのを見るたびに「鳥のエサ。なんであんなの食べるんやろう。」と言います。
わたしはコーンフレーク自体は嫌いではありませんが、このミルクが・・・。
なぜ、わざわざ温めたのだろうか。
コーンフレークがぶよんぶよんです。
結局ケンゾーはほとんど口をつけませんでした。
「空腹だから食べなきゃ」という義務感で、わたしが全部食べました。
紙コップに入ったコーヒーを手に持って、セニョール・サイメがわたしたちの小屋にやってきました。
いままさに一服しようとしていました。
でも、セニョール・サイメはわたしと目が合って言いました。
「コーヒー、飲みたいか。」
「え、
あ、
はい。」
セニョール・サイメは自分が飲もうとしていたコーヒーをくれました。
なんか・・・優しくなっていました。
ツンデレです。
わたしたちが蒸し暑くて蚊が多い独房で文句を言わずに一晩耐えたことを評価してくれたのか、それともこのマヌケな旅行者がかわいそうになってきたのか。
セニョール・サイメは優しくなっていたけれど、今ごろ優しくするぐらいなら、最初からわたしたちを捕まえずに見逃してくれればよかったのに、と正直なところ思いました。
約束の朝8時になりました。
でも、上司という人はやってきません。
代わりにほかの職員たちが出勤してきます。
そのたびに、小屋に入ったままのわたしたちをチラッと見たり、「どうしたんだ」と聞いたりします。
「ただのツーリストなんです。
わたしたちはベネズエラからパナマに出国するフライトのチケットをすでにもっています。
だからどうしてもベネズエラに入国しないといけないんです。」
フライトのチケットを見せながらアピールします。
わたしたちはベネズエラのあと、飛行機でパナマに飛ぶ予定でいます。
チケットは1万3000円。
ベネズエラに入国できないなら、ふたりで2万6000円分の損失になります。
それに・・・。
わたしたちはきょうの午後5時、マラカイボからプエルト・オルダスに飛ぶ飛行機のチケットももっていました。
ベネズエラの国内線はとても安く、ひとり1000円ちょっとで乗ることができます。
スムーズに移動ができるように、前回の滞在中に旅行代理店でチケットを買っていたのです。
早くここを出てマラカイボを目指さないと、その飛行機に乗れなくなります。
胸がボン、お尻もボンとした金髪ポニーテールのセクシー女性職員がやってきました。
わたしたちを見下すような目で見ます。
セニョーラ・金髪セクシーにも訴えます。
「ツーリストなんです。
日本人です。
ベネズエラからパナマ行きの飛行機をとってるんです。」
セニョーラ・金髪セクシーはキッパリと言います。
「あなたたちは不法入国者。
ベネズエラにとどまることはできないに決まってるでしょ。
不法に入ったんだから。
不法にね!」
「不法」と言われたら、返す言葉がありません。
セニョーラ・金髪セクシーめ!
待っても待っても、上司という人はやってきません。
職員に「いつ来るの?」と聞くと「すぐ」という言葉が返ってくるだけです。
わたしもケンゾーも不思議と「恐怖心」というものはきのうから一度も感じていません。
一晩電気もベッドもない真っ暗な蒸し暑い部屋に閉じ込められ監禁されたけど「恐怖心」は生まれませんでした。
苛立ちや先行きの見えない不安、どこかに八つ当たりしたいような気持ちはずっと抱えています。
それでも怖い、とは思いません。
閉ざされた共産主義の国、ベネズエラ。
殺人発生件数が世界でトップクラスで、南米一危ないと言われるベネズエラ。
役人が腐っているベネズエラ。
そんなところで法を犯し拘束されたわたしたちですから、どうされてもおかしくありません。
それなのにどうして恐怖心が生まれないのか。
独りじゃなく、ふたりだからか。
楽観主義だからか。
前回のベネズエラ旅で一度も怖い思いをしておらず、ベネズエラ人を信用しているからか。
改めていま思うと、不思議です。
太陽がどんどん上がっていき、ジリジリと地上を焦がします。
風はほとんど吹きません。
暑い!
暑すぎる!!
喉が渇いてしかたありません。
ツンデレ・セニョール・サイメがやってきて言いました。
「喉かわいたか?
なんか飲みたいか?」
「うん、飲みたい。」
もうわたしたちにとって、ツンデレ・セニョール・サイメは近所のおっちゃんのような存在になっていました。
「おっちゃん、ジュースおごってぇ。」
もはや、そんな感じです。
でも、このおっちゃんがわたしたちを拘束したのだし、この蒸し暑いところで一晩明かさせたのだし、このおっちゃんが解放してくれないのです。
このおっちゃんにイライラしながらも、わたしたちはこのおっちゃんに頼るしかない。
奇妙な関係です。
ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんは、任せとけ!というような顔でいいました。
「おお、待ってろ。
空のペットボトルはないか?」
わたしたちは1.5リットルのペットボトルを渡しました。
これに飲み水を入れてきてくれるのかな、と思っていると、いきなりペットボトルの上3分の1をナイフで切りはじめました。
どうして切る必要があるのだろうか。
5分後、冷たい水の入ったボトルをツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんがもってきてくれました。
中には大きな氷がゴロゴロと入っています。
「冷たーい!
おいしーい!!
ありがとう!!」
ほてっていた体が、落ちついていくのがわかります。
冷たい水を飲むだけで、こんなに涼しくなることにびっくりします。
まもなくお昼になろうとしています。
わたしたちの運命を決める上司はあいかわらず姿をあらわしません。
施錠は解除されたとはいえ、この部屋に軟禁されていることには変わりません。
いつまでこの状態が続くのでしょうか。
もう、きょうの午後5時の飛行機に乗るのは無理かもしれない。
もし無理だとしても、なんとしてもベネズエラの旅行を続行したい。
ロライマ山も見ていない。
マルガリータ島のリゾートホテルでの豪遊生活もしていない。
それにー。
このあとパナマ行きのフライトチケットが無駄になれば、わたしたちの今後の旅はどうなるのか。
上司という人はやってこないけど、捕われたコロンビア人がやってきました。
コロンビア人の数は増えていき、全員で6人になりました。
父と息子の親子、母と娘の親子、そして女性1人、男性1人。
みんなアジア人であるわたしたちを見て、不思議そうな顔をします。
「日本から着ました。
ツーリストです。
ベネズエラからパナマ行きの飛行機に乗る予定です。
きのうの夜に捕まって、この部屋で一晩明かしたんです。」
そういうとみんなが哀れみの目でわたしたちを見ます。
同士ができて心強いですが、わたしたちと違って彼らはベネズエラからコロンビアに帰りたがっています。
帰ろうと国境に向かっているところを止められたのです。
ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんが、売り子が売りにきたジュースをわたしたちに買ってくれました。
クラッシュアイスの入った冷たくておいしいジュースです。
コップ一杯のジュースをふたりで回し飲みしていたら、コロンビア人の親子がもう一杯買ってきてくれてわたしたちにくれました。
優しいです。
セニョーラ・金髪セクシーがやってきたので、ふたたび訴えます。
「いつになったらあなたたちの上司は来るんですか?」
セニョーラ・金髪セクシーはさっきまでは厳しい表情で冷たい態度でしたが、物腰が柔らかくなっていました。
膝に両手を当ててかがみ込み、胸を寄せ、困ったように眉間にシワを寄せ、わたしの顔をのぞきこみます。
そして、聞き分けのない子どもに語りかけるように言います。
「もう〜。
だめじゃないのぉ。
だって不法入国したんだよぉ。
上司はもうちょっとで来るから待ってなさい。」
「もうちょっとっていつですか?」
「もうちょっとは、もうちょっとよ。
わかった?」
そして、ニコッと笑います。
セニョーラ・金髪セクシーも、ツンデレ系か・・・。
冷たいジュースで喉を潤せても、空腹を満たすことはできません。
ケンゾーが言う「鳥のエサ」しか食べていないし、ケンゾーは「鳥のエサ」も食べていません。
「全然食べてないからお腹空いたな。」と言っていたら、ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんが、雑用係のスタッフにまたも何かを命じました。
親子丼みたいなものがきました。
今度はちゃんとふたり分です。
すごく、おいしい!

わたしたちだけ特別扱いなのかと思っていたら、コロンビア人たちにもそのあと振る舞われました。
コロンビア人も普通に食べています。
きのうは独房そのものだったところは、食事・談話室のようになっていました。
部屋のドアは開いているとはいえ、自由に出入りすることはできません。
ドアのそばに立ち、フェンス越しに外を眺めていると、サングラスをかけたいかつい兵士がやってきました。
銃を持っています。
旅行者にとってベネズエラの悪徳警官と兵士は要注意人物です。
すると、兵士はわたしの前で立ち止まり、ニコッと笑いました。
「ヘーイ!
どこから来たの?」
驚いたことに英語でした。
南米では英語を話せる人はとても珍しいのです。
その兵士はとてもフレンドリーでした。
兵士は明るい声で言いました。
「エブリシング、OK?」
あまりに明るく、親しみのある問いかけに、思わずケンゾーは笑顔で勢いよく答えました。
「イエース!」
わたしは横からつぶやきました。
「エブリシング、OKじゃないやろ。」
兵士にわたしたちの状況を説明しました。
兵士は誰かからわたしたちの様子を聞いているようで、わたしたちがなぜここに拘束されているかを知っていました。
「陸路の国境は閉まっているから、いったんコロンビアに戻って飛行機でベネズエラに入りなおすしかないね。
でも心配しないで。
大丈夫だよ。
何か聞きたいことあれば、また言ってね。」
兵士は笑顔で握手をして、仕事に戻っていきました。
いい兵士でした。
正午を過ぎて、ようやく上司というヤツがやってきました。
ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんよりも年上かと思っていたのに、まだ若いです。
偉そうにしています。
隣の建物のオフィスにわたしたちを呼びつけました。
オフィスの入口には、今は亡きチャベス前大統領が軍のベレー帽を被ったでっかい顔写真が貼られています。
ベネズエラではチャベスは神格化されていて、中国で言う毛沢東、ベトナムで言うホーチミン、キューバで言うゲバラのように扱われています。
赤く縁取られていて、ここが共産主義国であることを改めて実感させられます。
わたしたちはどうなるのだろうか。
このまま強制送還されたら困る。
どうしても、ベネズエラに行きたい。
上司というヤツは、クーラーがガンガン効いている部屋にいました。
わたしたちの拘束されている部屋と大違いです。
そこには仮眠用のベッドが置いてあって、偉そうにそこにゴロンと体を横にしてわたしたちを見つめます。
「ベネズエラからハバナに行ってそれから日本に帰ります。
だからそれまでベネズエラに滞在させてください。」
ベッドに寝たまま上司はパナマ行きのフライトチケットを見て、突き返しました。
「ダメだね。
コロンビアとの国境に帰るんだ。」
絶望的な思いでした。
わたしたちはコロンビアに帰ってどうすればいいのか。
「お願いします。」
繰り返してもダメでした。
セニョーラ・金髪セクシーがコンピューターで書類を作りはじめます。
そして、囚人のように顔写真を撮られました。
囚人のように指紋を採られました。
10本の指全部。
しかも関節から。
これで、わたしたちは不法入国者としてベネズエラ政府の記録に残ることでしょう。
もう二度とベネズエラに入れないのではないか。
ここで出国させられたくない。
わたしたちにはベネズエラでやり残したことがある。
ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんに助けを求めます。
「お願いします。
パナマ行きの飛行機を取っているんです。
とても高いんです。
無駄になってしまいます。」
ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんはなだめるように言います。
「ここではムリだけど、国境のオフィスで聞いてみてごらん。
そこで入国スタンプをもらえるかもしれないから。
とりあえず、いまは国境に戻るんだ。」
コロンビアへの強制送還のバスの手配ができました。
わたしたちは、ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんをはじめ、職員たちに別れを告げました。
拘束されたのに「お世話になりました」という気持ちになります。
ケンゾーなんて笑顔で「アディオース!(さようなら)」と手を挙げて言っています。
拘束されたのに、わたしたちはベネズエラ人を嫌いにならなかったようです。
職員の別のおっちゃんが、わたしたちを引率します。
同士である中国政府から支援されたものでしょうか。
中国製のきれいなバスです。

わたしたち以外の捕われた人たちは、このままコロンビアに帰ることができるので嬉しそうです。
しかも、交通費無料で。
ここを通る車は、エアコンのない古いバスか、オンボロのタクシー。
それに比べてこのバスは快適です。
エアコンが効いています。
コロンビア人は「いやあ、これ、快適だよね。ただひとつ残念なのは椅子がリクライニングできないこと。」と笑いながら言っています。

たった8人のために、このバスを走行させる。
そして、修学旅行のようにわたしたちを引率する職員がいる。
なんか、贅沢です。
国境が閉鎖されてからニュースでは、「ベネズエラのコロンビア人が国外追放されている。迫害を恐れて家や土地を捨てて、家財道具を持ってコロンビアに逃げている。人権を侵害されている。」と報道されています。
ベネズエラ側の扱いが「非人道的」だとして、国境には難民支援団体や外国の人権保護団体が待機し、逃げてくるコロンビア人を保護しています。
でもわたしたちが見たのは、報道とは全然違いました。
拘束されたコロンビア人は誰も不安そうな顔をしていません。
当たり前のように振る舞われた鶏丼を食べていました。
そして、エアコンの効いたバスで涼しげな顔で国境に向かっています。
ここまで苦労してやってきて、しかも一晩拘束までされて、結局逆戻り。
わたしとケンゾーは、ほかのコロンビア人と違って落ち込んでいます。
途中、何度か検問所を通りました。
車の長い列ができています。
わたしたちの特別なこのバスは、検問で足止めされることはありません。
まるで赤信号で待つ車の横を、我が物顔でスピードを上げて走る救急車のようです。
不法滞在で移送されている身分でこんなことを思うのは変ですが、検問所を素通りするたびに並んでいる車に対してちょっと優越感を感じます。
あの国境が見えてきました。
相変らず閉鎖されています。

わたしたちはイミグレーションの建物へと連れていかれました。
わたしとケンゾーには一抹の希望がありました。
ここで入国スタンプをもらって、正式にベネズエラに入国し、旅を続行することを。
けれど、それはもろくも崩れ去りました。
コロンビアへの強制送還を命じられました。
ふたたびさっきと同じように、全部の指の指紋を採られました。
どうしてさっきと同じことを繰り返さないといけないんでしょう。
イライラします。
それが終わるとなぜか待合室の一画に全員集まるように言われました。
そして職員が携帯電話を取り出しました。
写真撮影です。
横一列に並んでいるわけでもなく、ただみんなが集まっているだけ。
しかも携帯。
思わず「ハイ、チーズ!」と言いたくなる雰囲気です。
えっと、なんなんだろ、これ。
みんなで集合して携帯を向けられると、思わずニコッとしたくなる。
でも、わたしたちはニコッとしてはいけない身分。
どういう顔でカメラを見ればいいのかわかりません。
すると、コロンビア人の1人が「ぷっ」と吹き出しました。
それにつられて、わたしたちも笑います。
笑っているのおかまいなしに、職員は携帯で集合写真を撮ります。
なぜ携帯でこんな集合写真を撮っているのか謎です。
趣味で撮っているだけなんでしょうか。
「わたしたちはベネズエラからのパナマ行きのフライトのチケットを持っています。
だからベネズエラに行かないといけないんです。」
職員は言いました。
「飛行機で入るしかない。
今は陸路の国境はすべて閉鎖されているから。
コロンビアから飛行機でベネズエラに入りなさい。」
「不法入国して強制送還されたのに、そんなことできるんですか。
またベネズエラに入ることはできるんですか。」
「問題ない。
また入国できるよ。」
「でも、顔写真とか指紋とかとったじゃないですか。
記録に残るでしょ。」
「ああ、あれはなんの意味もない。
ただとっただけだから。
あんなのどうでもいい。」
じゃあ、なぜとったのでしょうか。
わたしたちふたりは女性職員に引率されて、コロンビア側のイミグレーションオフィスに連れていかれました。
仲が悪いとされるベネズエラとコロンビア。
でもコロンビアの男性職員が、ベネズエラの女性職員を笑顔で招き入れました。
「やあ、いらっしゃい。
調子はどう?」
そしてハグします。
ウォーターサーバーからコップに水を入れて、女性職員に手渡します。
笑顔で会話し、友だち同士のような関係です。
そしてわたしたちは、コロンビアの入国スタンプをもらいました。
自由の身になりました。
わたしたちはコロンビア領に足を踏み入れるなり、酒屋に走り、冷たいビールで喉を潤しました。
そしてきのう両替したばかりのベネズエラの通貨を、ふたたびコロンビアのペソに再両替しました。
きのうの両替屋で。
もちろん戻ってきたのは、きのう渡した額よりも少ないものでした。
そして、相乗りタクシーを捕まえました。

24時間以上かかり、わたしたちは同じ場所に戻ってきました。
いまごろわたしたちが乗るはずだった、マラカイボ発プエルト・オルダス行きの飛行機が離陸していることでしょう。
いったん入ったベネズエラがどんどん遠くなっていきます。

これでわたしたちの今後の予定は白紙になりました。
もうベネズエラを諦めて、ほかの国に行くのか。
それとも飛行機でもう一度ベネズエラ入国に挑戦するのか。
でも飛行機のチケットをわざわざ取って、また空港の入管で「あなたたちは不法入国した過去があるので、入国拒否」なんて言われたら、立ち直れません。
とりあえず、情報収集しないと。
インターネットの使える宿に泊まりたい。
この街に泊まる予定はなかったので、ホテルの場所なんて調べていません。
運良くタクシーのドライバーが、Wi-Fiがある安いホテルを知っていました。
バスターミナルの目の前のきれいなホテルです。

エアコンもついていて、バスルームもあって、まあまあ快適です。
キューバを出国して50時間。
ようやくリラックスできる場所にたどり着きました。
ふたりで5000ペソ(約2000円)。

傷心のふたり。
ホテルの1階のレストランでまともな食事をし、ビールを飲み、胃と心を労ります。
「どうする?」
「ベネズエラに再入国できるんかな。」
「飛行機のチケットをせっかく取っても、入国できるかわからんし。
コロンビアからパナマへ向かうチケットを取り直す?」
「でも、またお金をかけて飛行機を取って・・・。
そうまでして、中米に行きたいかどうか。
いっそのこと、このままアジアとかに飛ぶ?」
でも、わたしたちはベネズエラへの想いをまだ持ち続けていました。
拘束されたのに、ベネズエラを嫌いになりませんでした。
悪名高いベネズエラの役人は、不法入国者であるわたしたちを一度も叱りつけませんでした。
ジュースをくれたり、ご飯を作ってくれたりしました。
なんか、優しかったです。
わたしたちはきっとものすごく運が良かったのだと思います。
お金を巻き上げられても不思議ではありませんでした。
ののしられて変なことをされても不思議ではありませんでした。
でも、彼らはこのバカな旅行者をよく面倒みてくれました。
日本の不法滞在の外国人の扱いよりも良かったかもしれません。
いま思い出しても、ツンデレ・セリョール・サイメのおっちゃんとか、セニョーラ・金髪セクシーとか、また会いたいくらいです。
親しみを覚えます。
ベネズエラが、わたしたちをまだ呼んでいる気がしました。
でも、わたしたちにベネズエラに入国する資格はあるのでしょうか。
すでにいとこたちは就職していたから、もらえたの。
いつか恩返ししなきゃ。
ベネズエラに不法入国して捕まってしまったわたしたち。
ほんとうなら、今ごろマラカイボのエアコンの効いたホテルでぐっすり眠っているはずでした。
経済破綻しているベネズエラではわたしたちバックパッカーでも大金持ちになれます。
きのうの夕食は、おいしい中華料理か和食のはずだったのに、この独房のような場所で持っていた食べ物をつまむことしかできませんでした。
予想していたものと真逆の体験を突きつけられ、ショックは2倍です。
じっとりと汗ばむ室内。
ウトウトはできても、すぐに目が覚めて起き上がる。
これを何度か繰り返し、ようやく夜が明けました。
いま思えば、電源はあったのでパソコンで時間を潰せばよかったと思います。
インターネットはできないけど、ブログを書いたり、動画を見たり。
でも、そんな気分に全然なれませんでした。
ただひたすら耐えて、時間が過ぎるのを待つことしかできませんでした。
だって、わたしたちは囚人ですから。
まだ外は静かです。
どうせ監禁されて何もすることがないので、そのまま体を横たえて目をつぶりました。
すると誰かが入ってきました。
「おい、ズボンを履きなさい。」
その声でケンゾーは起こされ、あわてて服を着ます。
真っ暗で見えなかった室内。
独房のようにしか思えませんでしたが、明るくなって見てみるとそこまで悪い場所ではなさそうです。
施錠されていたドアの柵が開けられると、職員たちが出たり入ったりするようになりました。
検問所で働く職員たちの休憩室のようです。

ああ、バケツでおしっこをせずにすんだ。
わたしはホッとしました。
人権を保つことができたのです。
汗をかきすぎたため、わたしもケンゾーも強い尿意をもよおさずにすんだのです。
トイレをしたいと言うと、「裏に行け」と言われました。
ドアの柵は開けられたけど、小屋のまわりはフェンスで囲まれているのでフェンスから外に出ることはできません。
ドアから出て、フェンスの内側、小屋の裏の何もないところで、しゃがんで用を足しました。
メイクをしなきゃ。
顔は汗まみれですが、ファンデーションを塗り直し、アイメイクをしました。
こんな環境の中でも小綺麗にすることで、人間らしくあれる気がして。
それに身なりをきちんとしていたほうが、扱いが丁寧になるかもしれません。
ワンピースに着替えようかとも思いましたが、それはやり過ぎだと思い、服はそのままです。
セニョール・サイメがやってきました。
「わたしたちはどうなるのでしょう?
いつまでここで待てばいいんですか?」
セニョール・サイメはきのうと同じことを繰り返しました。
「午前8時に上司がやってくるから。
それまでそこにいなさい。」
「わたしたち、きのうからほとんど何も食べてないんです。
どこかで食料を買うことはできませんか。
近くにお店はないですか。」
「ない。
ちょっと待ってろ。」
セニョール・サイメは、きのうは厳しい顔をしていたけれど、今朝は少し柔和な顔つきになっているように思えました。
セニョール・サイメは雑用係の男性と女性に、何か指示しました。
朝食を作るように言っているようでした。
しばらくして、青いプラスチックのボウルにふたり分のスプーンが突き刺さったものが運ばれてきました。
食事をもらえるということはありがたいことではありますが、それはまるで囚人の食事のように見えました。

お腹はペコペコなのに、まるで食欲がわかない食べ物。
ケンゾーがもっとも不得意とする食事です。
ケンゾーは外国人旅行者がゲストハウスでコーンフレークやオートミールを食べているのを見るたびに「鳥のエサ。なんであんなの食べるんやろう。」と言います。
わたしはコーンフレーク自体は嫌いではありませんが、このミルクが・・・。
なぜ、わざわざ温めたのだろうか。
コーンフレークがぶよんぶよんです。
結局ケンゾーはほとんど口をつけませんでした。
「空腹だから食べなきゃ」という義務感で、わたしが全部食べました。
紙コップに入ったコーヒーを手に持って、セニョール・サイメがわたしたちの小屋にやってきました。
いままさに一服しようとしていました。
でも、セニョール・サイメはわたしと目が合って言いました。
「コーヒー、飲みたいか。」
「え、
あ、
はい。」
セニョール・サイメは自分が飲もうとしていたコーヒーをくれました。
なんか・・・優しくなっていました。
ツンデレです。
わたしたちが蒸し暑くて蚊が多い独房で文句を言わずに一晩耐えたことを評価してくれたのか、それともこのマヌケな旅行者がかわいそうになってきたのか。
セニョール・サイメは優しくなっていたけれど、今ごろ優しくするぐらいなら、最初からわたしたちを捕まえずに見逃してくれればよかったのに、と正直なところ思いました。
約束の朝8時になりました。
でも、上司という人はやってきません。
代わりにほかの職員たちが出勤してきます。
そのたびに、小屋に入ったままのわたしたちをチラッと見たり、「どうしたんだ」と聞いたりします。
「ただのツーリストなんです。
わたしたちはベネズエラからパナマに出国するフライトのチケットをすでにもっています。
だからどうしてもベネズエラに入国しないといけないんです。」
フライトのチケットを見せながらアピールします。
わたしたちはベネズエラのあと、飛行機でパナマに飛ぶ予定でいます。
チケットは1万3000円。
ベネズエラに入国できないなら、ふたりで2万6000円分の損失になります。
それに・・・。
わたしたちはきょうの午後5時、マラカイボからプエルト・オルダスに飛ぶ飛行機のチケットももっていました。
ベネズエラの国内線はとても安く、ひとり1000円ちょっとで乗ることができます。
スムーズに移動ができるように、前回の滞在中に旅行代理店でチケットを買っていたのです。
早くここを出てマラカイボを目指さないと、その飛行機に乗れなくなります。
胸がボン、お尻もボンとした金髪ポニーテールのセクシー女性職員がやってきました。
わたしたちを見下すような目で見ます。
セニョーラ・金髪セクシーにも訴えます。
「ツーリストなんです。
日本人です。
ベネズエラからパナマ行きの飛行機をとってるんです。」
セニョーラ・金髪セクシーはキッパリと言います。
「あなたたちは不法入国者。
ベネズエラにとどまることはできないに決まってるでしょ。
不法に入ったんだから。
不法にね!」
「不法」と言われたら、返す言葉がありません。
セニョーラ・金髪セクシーめ!
待っても待っても、上司という人はやってきません。
職員に「いつ来るの?」と聞くと「すぐ」という言葉が返ってくるだけです。
わたしもケンゾーも不思議と「恐怖心」というものはきのうから一度も感じていません。
一晩電気もベッドもない真っ暗な蒸し暑い部屋に閉じ込められ監禁されたけど「恐怖心」は生まれませんでした。
苛立ちや先行きの見えない不安、どこかに八つ当たりしたいような気持ちはずっと抱えています。
それでも怖い、とは思いません。
閉ざされた共産主義の国、ベネズエラ。
殺人発生件数が世界でトップクラスで、南米一危ないと言われるベネズエラ。
役人が腐っているベネズエラ。
そんなところで法を犯し拘束されたわたしたちですから、どうされてもおかしくありません。
それなのにどうして恐怖心が生まれないのか。
独りじゃなく、ふたりだからか。
楽観主義だからか。
前回のベネズエラ旅で一度も怖い思いをしておらず、ベネズエラ人を信用しているからか。
改めていま思うと、不思議です。
太陽がどんどん上がっていき、ジリジリと地上を焦がします。
風はほとんど吹きません。
暑い!
暑すぎる!!
喉が渇いてしかたありません。
ツンデレ・セニョール・サイメがやってきて言いました。
「喉かわいたか?
なんか飲みたいか?」
「うん、飲みたい。」
もうわたしたちにとって、ツンデレ・セニョール・サイメは近所のおっちゃんのような存在になっていました。
「おっちゃん、ジュースおごってぇ。」
もはや、そんな感じです。
でも、このおっちゃんがわたしたちを拘束したのだし、この蒸し暑いところで一晩明かさせたのだし、このおっちゃんが解放してくれないのです。
このおっちゃんにイライラしながらも、わたしたちはこのおっちゃんに頼るしかない。
奇妙な関係です。
ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんは、任せとけ!というような顔でいいました。
「おお、待ってろ。
空のペットボトルはないか?」
わたしたちは1.5リットルのペットボトルを渡しました。
これに飲み水を入れてきてくれるのかな、と思っていると、いきなりペットボトルの上3分の1をナイフで切りはじめました。
どうして切る必要があるのだろうか。
5分後、冷たい水の入ったボトルをツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんがもってきてくれました。
中には大きな氷がゴロゴロと入っています。
「冷たーい!
おいしーい!!
ありがとう!!」
ほてっていた体が、落ちついていくのがわかります。
冷たい水を飲むだけで、こんなに涼しくなることにびっくりします。
まもなくお昼になろうとしています。
わたしたちの運命を決める上司はあいかわらず姿をあらわしません。
施錠は解除されたとはいえ、この部屋に軟禁されていることには変わりません。
いつまでこの状態が続くのでしょうか。
もう、きょうの午後5時の飛行機に乗るのは無理かもしれない。
もし無理だとしても、なんとしてもベネズエラの旅行を続行したい。
ロライマ山も見ていない。
マルガリータ島のリゾートホテルでの豪遊生活もしていない。
それにー。
このあとパナマ行きのフライトチケットが無駄になれば、わたしたちの今後の旅はどうなるのか。
上司という人はやってこないけど、捕われたコロンビア人がやってきました。
コロンビア人の数は増えていき、全員で6人になりました。
父と息子の親子、母と娘の親子、そして女性1人、男性1人。
みんなアジア人であるわたしたちを見て、不思議そうな顔をします。
「日本から着ました。
ツーリストです。
ベネズエラからパナマ行きの飛行機に乗る予定です。
きのうの夜に捕まって、この部屋で一晩明かしたんです。」
そういうとみんなが哀れみの目でわたしたちを見ます。
同士ができて心強いですが、わたしたちと違って彼らはベネズエラからコロンビアに帰りたがっています。
帰ろうと国境に向かっているところを止められたのです。
ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんが、売り子が売りにきたジュースをわたしたちに買ってくれました。
クラッシュアイスの入った冷たくておいしいジュースです。
コップ一杯のジュースをふたりで回し飲みしていたら、コロンビア人の親子がもう一杯買ってきてくれてわたしたちにくれました。
優しいです。
セニョーラ・金髪セクシーがやってきたので、ふたたび訴えます。
「いつになったらあなたたちの上司は来るんですか?」
セニョーラ・金髪セクシーはさっきまでは厳しい表情で冷たい態度でしたが、物腰が柔らかくなっていました。
膝に両手を当ててかがみ込み、胸を寄せ、困ったように眉間にシワを寄せ、わたしの顔をのぞきこみます。
そして、聞き分けのない子どもに語りかけるように言います。
「もう〜。
だめじゃないのぉ。
だって不法入国したんだよぉ。
上司はもうちょっとで来るから待ってなさい。」
「もうちょっとっていつですか?」
「もうちょっとは、もうちょっとよ。
わかった?」
そして、ニコッと笑います。
セニョーラ・金髪セクシーも、ツンデレ系か・・・。
冷たいジュースで喉を潤せても、空腹を満たすことはできません。
ケンゾーが言う「鳥のエサ」しか食べていないし、ケンゾーは「鳥のエサ」も食べていません。
「全然食べてないからお腹空いたな。」と言っていたら、ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんが、雑用係のスタッフにまたも何かを命じました。
親子丼みたいなものがきました。
今度はちゃんとふたり分です。
すごく、おいしい!

わたしたちだけ特別扱いなのかと思っていたら、コロンビア人たちにもそのあと振る舞われました。
コロンビア人も普通に食べています。
きのうは独房そのものだったところは、食事・談話室のようになっていました。
部屋のドアは開いているとはいえ、自由に出入りすることはできません。
ドアのそばに立ち、フェンス越しに外を眺めていると、サングラスをかけたいかつい兵士がやってきました。
銃を持っています。
旅行者にとってベネズエラの悪徳警官と兵士は要注意人物です。
すると、兵士はわたしの前で立ち止まり、ニコッと笑いました。
「ヘーイ!
どこから来たの?」
驚いたことに英語でした。
南米では英語を話せる人はとても珍しいのです。
その兵士はとてもフレンドリーでした。
兵士は明るい声で言いました。
「エブリシング、OK?」
あまりに明るく、親しみのある問いかけに、思わずケンゾーは笑顔で勢いよく答えました。
「イエース!」
わたしは横からつぶやきました。
「エブリシング、OKじゃないやろ。」
兵士にわたしたちの状況を説明しました。
兵士は誰かからわたしたちの様子を聞いているようで、わたしたちがなぜここに拘束されているかを知っていました。
「陸路の国境は閉まっているから、いったんコロンビアに戻って飛行機でベネズエラに入りなおすしかないね。
でも心配しないで。
大丈夫だよ。
何か聞きたいことあれば、また言ってね。」
兵士は笑顔で握手をして、仕事に戻っていきました。
いい兵士でした。
正午を過ぎて、ようやく上司というヤツがやってきました。
ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんよりも年上かと思っていたのに、まだ若いです。
偉そうにしています。
隣の建物のオフィスにわたしたちを呼びつけました。
オフィスの入口には、今は亡きチャベス前大統領が軍のベレー帽を被ったでっかい顔写真が貼られています。
ベネズエラではチャベスは神格化されていて、中国で言う毛沢東、ベトナムで言うホーチミン、キューバで言うゲバラのように扱われています。
赤く縁取られていて、ここが共産主義国であることを改めて実感させられます。
わたしたちはどうなるのだろうか。
このまま強制送還されたら困る。
どうしても、ベネズエラに行きたい。
上司というヤツは、クーラーがガンガン効いている部屋にいました。
わたしたちの拘束されている部屋と大違いです。
そこには仮眠用のベッドが置いてあって、偉そうにそこにゴロンと体を横にしてわたしたちを見つめます。
「ベネズエラからハバナに行ってそれから日本に帰ります。
だからそれまでベネズエラに滞在させてください。」
ベッドに寝たまま上司はパナマ行きのフライトチケットを見て、突き返しました。
「ダメだね。
コロンビアとの国境に帰るんだ。」
絶望的な思いでした。
わたしたちはコロンビアに帰ってどうすればいいのか。
「お願いします。」
繰り返してもダメでした。
セニョーラ・金髪セクシーがコンピューターで書類を作りはじめます。
そして、囚人のように顔写真を撮られました。
囚人のように指紋を採られました。
10本の指全部。
しかも関節から。
これで、わたしたちは不法入国者としてベネズエラ政府の記録に残ることでしょう。
もう二度とベネズエラに入れないのではないか。
ここで出国させられたくない。
わたしたちにはベネズエラでやり残したことがある。
ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんに助けを求めます。
「お願いします。
パナマ行きの飛行機を取っているんです。
とても高いんです。
無駄になってしまいます。」
ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんはなだめるように言います。
「ここではムリだけど、国境のオフィスで聞いてみてごらん。
そこで入国スタンプをもらえるかもしれないから。
とりあえず、いまは国境に戻るんだ。」
コロンビアへの強制送還のバスの手配ができました。
わたしたちは、ツンデレ・セニョール・サイメのおっちゃんをはじめ、職員たちに別れを告げました。
拘束されたのに「お世話になりました」という気持ちになります。
ケンゾーなんて笑顔で「アディオース!(さようなら)」と手を挙げて言っています。
拘束されたのに、わたしたちはベネズエラ人を嫌いにならなかったようです。
職員の別のおっちゃんが、わたしたちを引率します。
同士である中国政府から支援されたものでしょうか。
中国製のきれいなバスです。

わたしたち以外の捕われた人たちは、このままコロンビアに帰ることができるので嬉しそうです。
しかも、交通費無料で。
ここを通る車は、エアコンのない古いバスか、オンボロのタクシー。
それに比べてこのバスは快適です。
エアコンが効いています。
コロンビア人は「いやあ、これ、快適だよね。ただひとつ残念なのは椅子がリクライニングできないこと。」と笑いながら言っています。

たった8人のために、このバスを走行させる。
そして、修学旅行のようにわたしたちを引率する職員がいる。
なんか、贅沢です。
国境が閉鎖されてからニュースでは、「ベネズエラのコロンビア人が国外追放されている。迫害を恐れて家や土地を捨てて、家財道具を持ってコロンビアに逃げている。人権を侵害されている。」と報道されています。
ベネズエラ側の扱いが「非人道的」だとして、国境には難民支援団体や外国の人権保護団体が待機し、逃げてくるコロンビア人を保護しています。
でもわたしたちが見たのは、報道とは全然違いました。
拘束されたコロンビア人は誰も不安そうな顔をしていません。
当たり前のように振る舞われた鶏丼を食べていました。
そして、エアコンの効いたバスで涼しげな顔で国境に向かっています。
ここまで苦労してやってきて、しかも一晩拘束までされて、結局逆戻り。
わたしとケンゾーは、ほかのコロンビア人と違って落ち込んでいます。
途中、何度か検問所を通りました。
車の長い列ができています。
わたしたちの特別なこのバスは、検問で足止めされることはありません。
まるで赤信号で待つ車の横を、我が物顔でスピードを上げて走る救急車のようです。
不法滞在で移送されている身分でこんなことを思うのは変ですが、検問所を素通りするたびに並んでいる車に対してちょっと優越感を感じます。
あの国境が見えてきました。
相変らず閉鎖されています。

わたしたちはイミグレーションの建物へと連れていかれました。
わたしとケンゾーには一抹の希望がありました。
ここで入国スタンプをもらって、正式にベネズエラに入国し、旅を続行することを。
けれど、それはもろくも崩れ去りました。
コロンビアへの強制送還を命じられました。
ふたたびさっきと同じように、全部の指の指紋を採られました。
どうしてさっきと同じことを繰り返さないといけないんでしょう。
イライラします。
それが終わるとなぜか待合室の一画に全員集まるように言われました。
そして職員が携帯電話を取り出しました。
写真撮影です。
横一列に並んでいるわけでもなく、ただみんなが集まっているだけ。
しかも携帯。
思わず「ハイ、チーズ!」と言いたくなる雰囲気です。
えっと、なんなんだろ、これ。
みんなで集合して携帯を向けられると、思わずニコッとしたくなる。
でも、わたしたちはニコッとしてはいけない身分。
どういう顔でカメラを見ればいいのかわかりません。
すると、コロンビア人の1人が「ぷっ」と吹き出しました。
それにつられて、わたしたちも笑います。
笑っているのおかまいなしに、職員は携帯で集合写真を撮ります。
なぜ携帯でこんな集合写真を撮っているのか謎です。
趣味で撮っているだけなんでしょうか。
「わたしたちはベネズエラからのパナマ行きのフライトのチケットを持っています。
だからベネズエラに行かないといけないんです。」
職員は言いました。
「飛行機で入るしかない。
今は陸路の国境はすべて閉鎖されているから。
コロンビアから飛行機でベネズエラに入りなさい。」
「不法入国して強制送還されたのに、そんなことできるんですか。
またベネズエラに入ることはできるんですか。」
「問題ない。
また入国できるよ。」
「でも、顔写真とか指紋とかとったじゃないですか。
記録に残るでしょ。」
「ああ、あれはなんの意味もない。
ただとっただけだから。
あんなのどうでもいい。」
じゃあ、なぜとったのでしょうか。
わたしたちふたりは女性職員に引率されて、コロンビア側のイミグレーションオフィスに連れていかれました。
仲が悪いとされるベネズエラとコロンビア。
でもコロンビアの男性職員が、ベネズエラの女性職員を笑顔で招き入れました。
「やあ、いらっしゃい。
調子はどう?」
そしてハグします。
ウォーターサーバーからコップに水を入れて、女性職員に手渡します。
笑顔で会話し、友だち同士のような関係です。
そしてわたしたちは、コロンビアの入国スタンプをもらいました。
自由の身になりました。
わたしたちはコロンビア領に足を踏み入れるなり、酒屋に走り、冷たいビールで喉を潤しました。
そしてきのう両替したばかりのベネズエラの通貨を、ふたたびコロンビアのペソに再両替しました。
きのうの両替屋で。
もちろん戻ってきたのは、きのう渡した額よりも少ないものでした。
そして、相乗りタクシーを捕まえました。

24時間以上かかり、わたしたちは同じ場所に戻ってきました。
いまごろわたしたちが乗るはずだった、マラカイボ発プエルト・オルダス行きの飛行機が離陸していることでしょう。
いったん入ったベネズエラがどんどん遠くなっていきます。

これでわたしたちの今後の予定は白紙になりました。
もうベネズエラを諦めて、ほかの国に行くのか。
それとも飛行機でもう一度ベネズエラ入国に挑戦するのか。
でも飛行機のチケットをわざわざ取って、また空港の入管で「あなたたちは不法入国した過去があるので、入国拒否」なんて言われたら、立ち直れません。
とりあえず、情報収集しないと。
インターネットの使える宿に泊まりたい。
この街に泊まる予定はなかったので、ホテルの場所なんて調べていません。
運良くタクシーのドライバーが、Wi-Fiがある安いホテルを知っていました。
バスターミナルの目の前のきれいなホテルです。

エアコンもついていて、バスルームもあって、まあまあ快適です。
キューバを出国して50時間。
ようやくリラックスできる場所にたどり着きました。
ふたりで5000ペソ(約2000円)。

傷心のふたり。
ホテルの1階のレストランでまともな食事をし、ビールを飲み、胃と心を労ります。
「どうする?」
「ベネズエラに再入国できるんかな。」
「飛行機のチケットをせっかく取っても、入国できるかわからんし。
コロンビアからパナマへ向かうチケットを取り直す?」
「でも、またお金をかけて飛行機を取って・・・。
そうまでして、中米に行きたいかどうか。
いっそのこと、このままアジアとかに飛ぶ?」
でも、わたしたちはベネズエラへの想いをまだ持ち続けていました。
拘束されたのに、ベネズエラを嫌いになりませんでした。
悪名高いベネズエラの役人は、不法入国者であるわたしたちを一度も叱りつけませんでした。
ジュースをくれたり、ご飯を作ってくれたりしました。
なんか、優しかったです。
わたしたちはきっとものすごく運が良かったのだと思います。
お金を巻き上げられても不思議ではありませんでした。
ののしられて変なことをされても不思議ではありませんでした。
でも、彼らはこのバカな旅行者をよく面倒みてくれました。
日本の不法滞在の外国人の扱いよりも良かったかもしれません。
いま思い出しても、ツンデレ・セリョール・サイメのおっちゃんとか、セニョーラ・金髪セクシーとか、また会いたいくらいです。
親しみを覚えます。
ベネズエラが、わたしたちをまだ呼んでいる気がしました。
でも、わたしたちにベネズエラに入国する資格はあるのでしょうか。
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