最近ルイボスティーのおいしさに目覚めているイクエです。
ルイボスは南アフリカで栽培されているらしく、紅茶よりもこっちではポピュラー。
紅茶よりも苦みがないし、ウーロン茶のように料理にも合う。
体にもいいからこっちにいる間にたくさん飲んでおこう。
ルワンダの首都、キガリに滞在しているイクエとケンゾー。
ルワンダはとても小さい国だけど、バスが定時に出発したりゴミが落ちてなかったり、車は歩行者に道を譲ってくれたり、値段交渉もそんなにしなくてよかったりで、アフリカっぽくない。

小さいけれど街はきれいに整備されていて、街路樹や芝生のロータリーなど人工的な緑が多い。
「なんかシンガポールみたい」。
そう思っていたら、実際ルワンダは「アフリカのシンガポール」って言われてるんだって。
街のつくりだけでなく、政策も似てる気がする。
シンガポールはゴミのポイ捨てやガムの持込みが禁止されていて、ルワンダではビニール袋が禁止されている。
ちょっと厳しすぎるなあと思う。
ルワンダにはおかしなルールがほかにもある。
毎月最終土曜日は「清掃の日」。
家族のうち必ずひとりが代表で街の清掃活動に参加しないといけない。
さらに金曜日は「スポーツデイ」。
健康のためにみんなで運動をしましょうという日。
金曜日の午後には公務員も仕事を切り上げ、上司のおっちゃんたちと部下の女の子たちがいっしょにエアロビをやったりしている。
上司のエアロビ姿も見たくないし、エアロビ姿を見られたくもないなあ。
急速に発展しているルワンダは「アフリカの奇蹟」とも言われている。

街の中心地には高層ビルが建ち、キラキラと窓が反射している。
でもそんな華やかな場所は一部で、そこから街を見下ろすと小さな住宅が密集していて、こことはまったく違う世界に見える。


たいていアフリカの役人は腐敗していて市民に賄賂をせがんだり、仕事に遅刻するのも日常茶飯事、さぼってばかりだけど、ルワンダの公務員はまじめに出勤して働いているらしい。
アフリカに派遣されている海外協力隊員たちは、自分以外の職場の人が仕事をまじめにしないことにストレスをためるケースが多いんだけど、ルワンダ隊は違う。
とくにキガリで活動する隊員たちは、職場の上司たちからのプレッシャーを受けながら朝から晩まで拘束されている。
休むヒマもない隊員たちもいる。
だからルワンダの隊員たちを見ると、日本の社会人を見ているような気分になる。
首都のキガリに配属されている隊員は社会人経験者がほとんどで、デキル人が多い。
泊めてくれているみっつも、日本にいるときは「一億円動かす」ような責任のある仕事を任されていたらしい。
そんなみっつだから、「わたしは忙しくて案内できませんが、代わりにほかの隊員におふたりのアテンドをお願いしていますので」とわたしたちのためにいろいろとセッティングしてくれていた。
朝早く出勤するみっつとともに家を出てバス停へ。
みっつの代わりにわたしたちに街案内をしてくれる隊員と会うことになっている。
繁華街でバスを降りると、目の前には建設中のビル。
足場がほかのアフリカの国のように木じゃなくて、ちゃんと鉄製ってところにルワンダの発展具合を感じる。

さて、忙しいなかわたしたちにつきあってくれるのがこの人。
通称「ナイケル」。

ニックネーム「ナイケル」は、彼の本名が内藤くんであることとマイケルジャクソンからきている。
子どものころからなぜかマイケルジャクソンが大好きだったというナイケル。
同じ年の友だちはドラえもんや戦隊もの、お母さんといっしょなんかをテレビで見て楽しんでいたのに、ナイケルはマイケルジャクソンのPVが大好きでテレビで流れると釘付けになっていたんだそう。
マイケルジャクソンが大好きだったナイケル少年。
ある日、遊園地で迷子になってしまう。
迷子としてスタッフに保護されたマイケル。
「お名前はなあに?」
優しくスタッフに聞かれた少年はこう答えた。
「ぼく、まいけるじゃくそん。」
「!?」
「まいけるじゃくそん!」
「じゃなくて・・・ぼくのお名前はなんていうのかな?
なに君かな?」
「まいけるじゃくそん!!」
少年はかたくなに自分はマイケルジャクソンであると訴えた。
そして館内放送が流れた。
「♪ピンポンパンポーン
◯◯からお越しの、自分のことをマイケルジャクソンと言っている男の子が迷子になっています。」
両親はすぐに我が子だってわかったんだって。
そんな過去をもつナイケル。
10代のころはプロのミュージシャンを目指していたけれど声帯を痛めて夢をあきらめた。
そのあとナイケルが目標にしたことは、たくさん働き、たくさん稼ぐこと。
それからはベンチャー企業でバリバリ働いていて、年収一千万くらい稼いだらしい。
だけどお金を手にしてもナイケルのこころは満足しなかった。
そんなとき取引先だった旅館のお手伝いを休日返上でやることがあった。
最初は営業活動のいっかんとしてやっていたけど、手伝うことが単純に楽しかった。
相手からも感謝された。
そのときにナイケルは「自分にとって大切なのはお金じゃないんだな」って悟ったのだそう。
そして協力隊として海外でボランティアをすることに興味をもったんだって。

28歳のナイケルは新たな夢をもっている。
国連関係の職員になり、難民支援に関わりたい。
その第一ステップとして、協力隊の活動が終われば海外の大学で国際協力について学ぶことにしている。
社会人になったときはそんなこと思ってもなかったのに、人生ってなにがおこるかわからない。
だから、楽しい。
いまナイケルは地域を活性化するためのプロジェクトに関わっている。
観光資源に乏しいルワンダで、ツーリストが街歩きを楽しみ、少しでもお金を落とすように観光地図を制作した。

お土産屋さんやレストランを紹介した地図。
作った地図はホテルなんかにも置いてもらってるんだそう。
ナイケルの活動場所のひとつがここ。


ルワンダの民芸品を集めたショップ。
職人さんたちが組合をつくって制作、販売している。
その運営のアドバイスをやっている。

そんなナイケルだから、キガリにやって来る日本人の旅行者たちを今まで何度も案内している。
ルワンダについて紹介するブログもやっていて、ブログを読んだ人から連絡をもらってキガリで会ってガイドしてあげることも多いんだって。
(「ルワンダから観た世界〜内藤俊輔BOOK」)。
もう何十組かすでにガイドしていて、なかには個人的にルワンダにやって来た芸能人もいたのだそう。
ルワンダでの観光と言えば、おもに2つしかない。
ひとつはゴリラの生息する森をトレッキングすること。
そしてもうひとつは、ルワンダ虐殺の現場を巡る旅。
ルワンダ虐殺とは、1994年に起きた民族の大量虐殺。
ルワンダでツチ族とフツ族が対立し、およそ100日間で50万人とも100万人とも言われる人が殺された。
悲惨なできごとが観光資源になっているのは違和感があるかもしれないけど、日本に来た外国人が広島を訪れたり、ポーランドでわたしたちがナチスのアウシュビッツ強制収容所に行ったりするのと同じようなこと。

わたしたちが最初に訪れたのは「キガリ虐殺メモリアルセンター」。
外国からの支援を受けてつくられたもので、当時の社会情勢やツチ族とフツ族の対立が深まり虐殺に至った様子などがパネルで展示されている。
しっかりした資料館だけど入場料は無料。
ナイケルはもう5回くらいは来ているそう。
初心を忘れないためにここで虐殺のことを見つめ、考えるきっかけを自分でつくるようにしているんだって。
その後、わたしたちはこの場所にも行った。

ホテル、ミルコリン。
キガリにある老舗の高級ホテル。
ここに来たのは泊まるからじゃない。
ルワンダ虐殺のときの出来事を描いた映画『ホテルルワンダ』の舞台になったところ。


『ホテルルワンダ』はわたしとケンゾーも日本で見たことがあった。
虐殺から逃れようとこのホテルにやってくるツチ族やフツ族穏健派を、支配人だったポール・ルセサバギナが迎え入れかくまり、1268人の命を救ったことが描かれている。
彼は「アフリカのシンドラー」と称えられている。
映画でホテルの名前は「ホテルルワンダ」となっているし、撮影で使われたホテルはここではない。
けれど実際の現場だったのはこのミルコリンだった。

映画ではホテルの水が止まり、生き延びるために人々がプールの水を利用したことが描かれている。
とても生々しい映画だったし、実際この場所はつねに恐怖に包まれて壮絶な場所だったのだろうけど、目の前の風景があまりに優雅で、かけ離れていてなかなかその事実を受け止められない。

当時ここに隠れていた人たちは、荒んでいく街をここから見下ろしながら、自分たちの将来を案じたのだろう。

ホテルは街の真ん中にある。
けっして安全な場所ではない。
ナタや鎌をもった暴徒が垣根を越えて通りから侵入すればすぐにやられてしまう。
実際、ナタを持って垣根の向こうでこっちをにらみながら脅している男たちもいたと思う。

こんな場所にいながらも、まだわたしはルワンダの虐殺について現実味がわかない。
ルワンダは一見するととても平和で穏やかな国に見える。
たった20年しか経ってないのに、なぜいまツチ族とフツ族が共存できているのか。
ルワンダに来てなぜ虐殺が起きたのか、人々はどう向き合っているのか、いまどうなっているのかを知ろうと思ったのに、ルワンダに来たことでかえってわけがわからなくなっている。
虐殺のことはあまりにもナイーブなことで、地元の人の前で口に出すことはできない。
「フツ」とか「ツチ」とか単語を言うのもダメで、たとえ日本人同士で日本語で虐殺のことを話していても「フツ族」とか「ツチ族」と言うとそばで聞いている現地の人に悟られてしまうので使わないほうがいいらしい。
協力隊員たちは虐殺のことを日本語で会話するときも「フツ族」のことを「F」、「ツチ族」のことを「T」と話す。
虐殺のことを知ろうと思ってきたのに、わたしはこの国で何か知ることができるのだろうか。
もどかしさとわけのわからなさとあせりを抱えたまま、ルワンダでの日々が続いていく。
ルイボスは南アフリカで栽培されているらしく、紅茶よりもこっちではポピュラー。
紅茶よりも苦みがないし、ウーロン茶のように料理にも合う。
体にもいいからこっちにいる間にたくさん飲んでおこう。
ルワンダの首都、キガリに滞在しているイクエとケンゾー。
ルワンダはとても小さい国だけど、バスが定時に出発したりゴミが落ちてなかったり、車は歩行者に道を譲ってくれたり、値段交渉もそんなにしなくてよかったりで、アフリカっぽくない。

小さいけれど街はきれいに整備されていて、街路樹や芝生のロータリーなど人工的な緑が多い。
「なんかシンガポールみたい」。
そう思っていたら、実際ルワンダは「アフリカのシンガポール」って言われてるんだって。
街のつくりだけでなく、政策も似てる気がする。
シンガポールはゴミのポイ捨てやガムの持込みが禁止されていて、ルワンダではビニール袋が禁止されている。
ちょっと厳しすぎるなあと思う。
ルワンダにはおかしなルールがほかにもある。
毎月最終土曜日は「清掃の日」。
家族のうち必ずひとりが代表で街の清掃活動に参加しないといけない。
さらに金曜日は「スポーツデイ」。
健康のためにみんなで運動をしましょうという日。
金曜日の午後には公務員も仕事を切り上げ、上司のおっちゃんたちと部下の女の子たちがいっしょにエアロビをやったりしている。
上司のエアロビ姿も見たくないし、エアロビ姿を見られたくもないなあ。
急速に発展しているルワンダは「アフリカの奇蹟」とも言われている。

街の中心地には高層ビルが建ち、キラキラと窓が反射している。
でもそんな華やかな場所は一部で、そこから街を見下ろすと小さな住宅が密集していて、こことはまったく違う世界に見える。


たいていアフリカの役人は腐敗していて市民に賄賂をせがんだり、仕事に遅刻するのも日常茶飯事、さぼってばかりだけど、ルワンダの公務員はまじめに出勤して働いているらしい。
アフリカに派遣されている海外協力隊員たちは、自分以外の職場の人が仕事をまじめにしないことにストレスをためるケースが多いんだけど、ルワンダ隊は違う。
とくにキガリで活動する隊員たちは、職場の上司たちからのプレッシャーを受けながら朝から晩まで拘束されている。
休むヒマもない隊員たちもいる。
だからルワンダの隊員たちを見ると、日本の社会人を見ているような気分になる。
首都のキガリに配属されている隊員は社会人経験者がほとんどで、デキル人が多い。
泊めてくれているみっつも、日本にいるときは「一億円動かす」ような責任のある仕事を任されていたらしい。
そんなみっつだから、「わたしは忙しくて案内できませんが、代わりにほかの隊員におふたりのアテンドをお願いしていますので」とわたしたちのためにいろいろとセッティングしてくれていた。
朝早く出勤するみっつとともに家を出てバス停へ。
みっつの代わりにわたしたちに街案内をしてくれる隊員と会うことになっている。
繁華街でバスを降りると、目の前には建設中のビル。
足場がほかのアフリカの国のように木じゃなくて、ちゃんと鉄製ってところにルワンダの発展具合を感じる。

さて、忙しいなかわたしたちにつきあってくれるのがこの人。
通称「ナイケル」。

ニックネーム「ナイケル」は、彼の本名が内藤くんであることとマイケルジャクソンからきている。
子どものころからなぜかマイケルジャクソンが大好きだったというナイケル。
同じ年の友だちはドラえもんや戦隊もの、お母さんといっしょなんかをテレビで見て楽しんでいたのに、ナイケルはマイケルジャクソンのPVが大好きでテレビで流れると釘付けになっていたんだそう。
マイケルジャクソンが大好きだったナイケル少年。
ある日、遊園地で迷子になってしまう。
迷子としてスタッフに保護されたマイケル。
「お名前はなあに?」
優しくスタッフに聞かれた少年はこう答えた。
「ぼく、まいけるじゃくそん。」
「!?」
「まいけるじゃくそん!」
「じゃなくて・・・ぼくのお名前はなんていうのかな?
なに君かな?」
「まいけるじゃくそん!!」
少年はかたくなに自分はマイケルジャクソンであると訴えた。
そして館内放送が流れた。
「♪ピンポンパンポーン
◯◯からお越しの、自分のことをマイケルジャクソンと言っている男の子が迷子になっています。」
両親はすぐに我が子だってわかったんだって。
そんな過去をもつナイケル。
10代のころはプロのミュージシャンを目指していたけれど声帯を痛めて夢をあきらめた。
そのあとナイケルが目標にしたことは、たくさん働き、たくさん稼ぐこと。
それからはベンチャー企業でバリバリ働いていて、年収一千万くらい稼いだらしい。
だけどお金を手にしてもナイケルのこころは満足しなかった。
そんなとき取引先だった旅館のお手伝いを休日返上でやることがあった。
最初は営業活動のいっかんとしてやっていたけど、手伝うことが単純に楽しかった。
相手からも感謝された。
そのときにナイケルは「自分にとって大切なのはお金じゃないんだな」って悟ったのだそう。
そして協力隊として海外でボランティアをすることに興味をもったんだって。

28歳のナイケルは新たな夢をもっている。
国連関係の職員になり、難民支援に関わりたい。
その第一ステップとして、協力隊の活動が終われば海外の大学で国際協力について学ぶことにしている。
社会人になったときはそんなこと思ってもなかったのに、人生ってなにがおこるかわからない。
だから、楽しい。
いまナイケルは地域を活性化するためのプロジェクトに関わっている。
観光資源に乏しいルワンダで、ツーリストが街歩きを楽しみ、少しでもお金を落とすように観光地図を制作した。

お土産屋さんやレストランを紹介した地図。
作った地図はホテルなんかにも置いてもらってるんだそう。
ナイケルの活動場所のひとつがここ。


ルワンダの民芸品を集めたショップ。
職人さんたちが組合をつくって制作、販売している。
その運営のアドバイスをやっている。

そんなナイケルだから、キガリにやって来る日本人の旅行者たちを今まで何度も案内している。
ルワンダについて紹介するブログもやっていて、ブログを読んだ人から連絡をもらってキガリで会ってガイドしてあげることも多いんだって。
(「ルワンダから観た世界〜内藤俊輔BOOK」)。
もう何十組かすでにガイドしていて、なかには個人的にルワンダにやって来た芸能人もいたのだそう。
ルワンダでの観光と言えば、おもに2つしかない。
ひとつはゴリラの生息する森をトレッキングすること。
そしてもうひとつは、ルワンダ虐殺の現場を巡る旅。
ルワンダ虐殺とは、1994年に起きた民族の大量虐殺。
ルワンダでツチ族とフツ族が対立し、およそ100日間で50万人とも100万人とも言われる人が殺された。
悲惨なできごとが観光資源になっているのは違和感があるかもしれないけど、日本に来た外国人が広島を訪れたり、ポーランドでわたしたちがナチスのアウシュビッツ強制収容所に行ったりするのと同じようなこと。

わたしたちが最初に訪れたのは「キガリ虐殺メモリアルセンター」。
外国からの支援を受けてつくられたもので、当時の社会情勢やツチ族とフツ族の対立が深まり虐殺に至った様子などがパネルで展示されている。
しっかりした資料館だけど入場料は無料。
ナイケルはもう5回くらいは来ているそう。
初心を忘れないためにここで虐殺のことを見つめ、考えるきっかけを自分でつくるようにしているんだって。
その後、わたしたちはこの場所にも行った。

ホテル、ミルコリン。
キガリにある老舗の高級ホテル。
ここに来たのは泊まるからじゃない。
ルワンダ虐殺のときの出来事を描いた映画『ホテルルワンダ』の舞台になったところ。


『ホテルルワンダ』はわたしとケンゾーも日本で見たことがあった。
虐殺から逃れようとこのホテルにやってくるツチ族やフツ族穏健派を、支配人だったポール・ルセサバギナが迎え入れかくまり、1268人の命を救ったことが描かれている。
彼は「アフリカのシンドラー」と称えられている。
映画でホテルの名前は「ホテルルワンダ」となっているし、撮影で使われたホテルはここではない。
けれど実際の現場だったのはこのミルコリンだった。

映画ではホテルの水が止まり、生き延びるために人々がプールの水を利用したことが描かれている。
とても生々しい映画だったし、実際この場所はつねに恐怖に包まれて壮絶な場所だったのだろうけど、目の前の風景があまりに優雅で、かけ離れていてなかなかその事実を受け止められない。

当時ここに隠れていた人たちは、荒んでいく街をここから見下ろしながら、自分たちの将来を案じたのだろう。

ホテルは街の真ん中にある。
けっして安全な場所ではない。
ナタや鎌をもった暴徒が垣根を越えて通りから侵入すればすぐにやられてしまう。
実際、ナタを持って垣根の向こうでこっちをにらみながら脅している男たちもいたと思う。

こんな場所にいながらも、まだわたしはルワンダの虐殺について現実味がわかない。
ルワンダは一見するととても平和で穏やかな国に見える。
たった20年しか経ってないのに、なぜいまツチ族とフツ族が共存できているのか。
ルワンダに来てなぜ虐殺が起きたのか、人々はどう向き合っているのか、いまどうなっているのかを知ろうと思ったのに、ルワンダに来たことでかえってわけがわからなくなっている。
虐殺のことはあまりにもナイーブなことで、地元の人の前で口に出すことはできない。
「フツ」とか「ツチ」とか単語を言うのもダメで、たとえ日本人同士で日本語で虐殺のことを話していても「フツ族」とか「ツチ族」と言うとそばで聞いている現地の人に悟られてしまうので使わないほうがいいらしい。
協力隊員たちは虐殺のことを日本語で会話するときも「フツ族」のことを「F」、「ツチ族」のことを「T」と話す。
虐殺のことを知ろうと思ってきたのに、わたしはこの国で何か知ることができるのだろうか。
もどかしさとわけのわからなさとあせりを抱えたまま、ルワンダでの日々が続いていく。
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