Now,we are HERE!
訪れた国は78カ国
旅した期間は1257日
2016年2月14日に帰国!
プロフィール

ケンゾー   イクエ


2007年10月 結婚
2012年09月 世界旅行に出発

ジャンル
カレンダー
06 | 2021/07 | 08
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
月別記事
リンク
見てくれてありがとう!
ふたりのお勧め旅グッズ











 日本→韓国→モンゴル→中国→ラオス→ベトナム→台湾→シンガポール→バングラデシュ→インド→スリランカ→アラブ首長国連邦→オマーン→トルコ→ジョージア→アルメニア→アゼルバイジャン→カザフスタン→ウズベキスタン→タジキスタン→キルギス→イラン→イタリア→バチカン→チュニジア→フランス→チェコ→オーストリア→ポーランド→イスラエル→パレスチナ→ヨルダン→イギリス→アイルランド→ポルトガル→モロッコ→スペイン→ハンガリー→スロバキア→スロヴェニア→クロアチア→セルビア→ボスニア・ヘルツェゴビナ→モンテネグロ→コソボ→マケドニア→アルバニア→ギリシャ→エジプト→スーダン→エチオピア→ケニア→ウガンダ→ルワンダ→タンザニア→マラウイ→ザンビア→ボツワナ→ナミビア→南アフリカ→アルゼンチン→チリ→パラグアイ→ボリビア→ペルー→エクアドル→コロンビア→ベネズエラ→キューバ→ベネズエラ→パナマ→コスタ・リカ→ニカラグア→ホンジュラス→エル・サルバドル→グアテマラ→ベリーズ→メキシコ→アメリカ→
日本


「償いの家」に住むおじさん

2015.01.23 09:08|ルワンダ☞EDIT
鼻の頭の皮がむけてきたイクエです。
アフリカの太陽の強さをなめていた。
腕が真っ黒で、この前出会った日本人の旅人に「カンボジア人より黒い」と言われました。
ケンゾーは「エクアドル人並み」だそうです。

20年前にルワンダで起きた虐殺。
虐殺に加担した加害者と、家族を殺された被害者。

加害者と被害者が協力しながら活動する養豚場を見せてもらった。
そこは、お互いに心を通わせ和解を目指す場所。
そこで活動している人たちは穏やかな微笑みを浮かべ、いきいきとしていた。

「虐殺のお話を聞くこともできますよ。」
案内してくれていた協力隊のやすこちゃんが言った。

わたしとケンゾーはそんな機会をずっと待っていた。
虐殺から20年経ったとは言え、傷は深く、気軽に話題にあげることはできない。
ルワンダに来てから虐殺記念館を訪ね、パネル展示や被害者の頭蓋骨、石灰を塗られたおびただしい数の遺体、山積みにされた被害者の衣服を見てきた。
けれど、そのときのことを知る人々と直接向き合い深い話を聞くことはできずにいた。
もどかしいけど、それができないのが事実だった。

養豚場で活動する人たちは過酷なできごとを経験しているけれど、何度もNGOのセミナーを受け、過去と向き合い、相手を受け入れ、お互い前向きに生きていこうとしている人たち。
虐殺の話をほかの人にする機会も多く、わたしたちが聞きたいことを話してもらえるようだった。

「すぐそばにご自宅があるのでそちらで話をうかがいましょう。」
おじさんとやすこちゃんのあとをついていく。

わたしも小柄だけど、やすこちゃんも背は小さい。
おじさんの背の高さが際立つ。

a_DSC_0355_201501201847087ca.jpg

「とっても背が高いですね。」

そう言うと、おじさんはとても嬉しそうな顔をした。

だけど、こんな大男で強そうな人が足を引きずって歩いている。
今でこそおじさんは初老の男性だけれど、虐殺が起きた20年前は今よりももっと恰幅がよくて力強かったはず。

そんなおじさんが襲われたことに違和感を感じる。
そのいっぽう、誰もが被害者になるのだという事実を改めて実感した。

おじさんの住む家は養豚場からすぐのところだった。
虐殺の加害者が被害者のために建てた「償いの家」。

a_DSC_0356_201501201847082f1.jpg

虐殺の加害者たちが毎日ここに通い、汗を流しながら日干しレンガを積み上げてこの家を造る姿をおじさんは見つめてきた。
加害者が罪をつぐなっている姿を見つめてきたのだった。

わたしたちは家の外の日陰に腰かけて、おじさんから話をうかがうことにした。
もちろんおじさんは英語を話せない。
現地語の話せるやすこちゃんに通訳をお願いする。

a_DSC_0357_20150120184710685.jpg

わたしはいつも説明を聞くとき必ずメモをとる。
正確なことをブログに書きたいし、内容を忘れたくないから。
でも、わたしはこのときメモを出さなかった。
せっかく貴重な話を聞いたのにメモをとればよかったと今では後悔しているけど、このときはそうすることを選ばなかった。
これは記者時代も同じで、遺族や被害者から話を聞くときはわたしはあまりメモを取らないようにしてきた。
こころのなかで葛藤しながらつらいできごとを話している相手に対してちゃんと目を見て話を聞きたい。
それに「取材者」と「取材相手」という雰囲気を出したくない。
一対一の人間として会話をするのに、メモを取るという行為はふさわしくないような気もしていたから。

メモを取っていないから、おじさんから聞いたことをここで詳細に書くことができないけど、わたしたちは2時間近くお話をうかがい、とても貴重な時間を過ごすことができた。
わたしとケンゾーにとっておじさんの話はこころに深く響いて、ルワンダでわたしたちがずっと抱えていたモヤモヤを解きほどいてくれるものだった。

a_DSC_0360_20150120184711335.jpg

「虐殺のときはどこに住んでいらっしゃったんですか。」
「ここの近くだよ。
 たくさんの人たちが殺された。」

「足もそのときにやられたものなんですよね。
 当時のことを聞いてもいいですか。」

「いきなりフツ族の男たちがうちに押し掛けてきたんだ。
 怒鳴っていたし武器も持っていた。
 こっちに抵抗する余裕なんてない。」

「押し掛けた人たちの中には顔見知りの人もいたのですか。」
「ああ。
 わたしも含め男たちは村の一か所に集められた。
 そこで殴られたり切られたり。
 殺された人もたくさんいた。
 わたしも頭を切られて、胸を何度も何度も叩かれた。」


a_DSC_0364_20150120184746093.jpg

頭に傷を受け、何度も圧迫された心臓の部分は今もときおり傷むという。
足にも金具を入れていて、足が完治することは一生ない。

a_DSC_0363_201501201847478cc.jpg

「そんななか命をとりとめたんですね。」
「襲われて歩けなくなっていたし、わたしは倒れていた。
血も出ていたから、相手はわたしが死んだと思ったのだろう。
実際にまわりには殺された人もたくさんいたから。
しばらくしたらルワンダ愛国戦線の部隊がやってきてわたしたちを襲っていたやつらは逃げていった。」

「ご家族は?」
「わたしが連れ去られたとき、妻はほかの女性たちとともに別の場所に連れて行かれてしまった。
そこで殺された。」

「ご遺体は見つかりましたか?」
「いや、見つからない。」

a_DSC_0365_2015012018474706d.jpg

ルワンダの虐殺は、それまで共存していたフツ族とツチ族がお互いに不信感を抱き、殺害に発展していった。
とはいえ、実は「フツ族」と「ツチ族」という民族の分け方はあいまいで言葉や宗教が違うわけではない。
はっきりと区別されないなか、判断手段は農耕民族か牧畜民族か。
畑を耕して暮らしていた人がフツ、家畜を飼って暮らしていた人がツチとされた。

第一次大戦後、ルワンダはベルギーによって支配された。
ベルギーは統治しやすいように行政のトップをツチに独占させ、教育面でもツチを優遇するようになった。
さらにツチかフツかを表示した身分証を発行したことで、それまで違いがあいまいだったフツとツチがはっきり区別されるようになった。
その後、逆にフツが優遇されるようになったりと両者の立場は逆転しながら、お互いへの反感が生まれていくようになっていった。

首都のキガリの虐殺記念館には、これまで世界で行なわれてきた虐殺について紹介しているパネルも展示されていた。
ナチスによるユダヤ人迫害、ユーゴ紛争のときの民族同士の殺し合い、カンボジアのポルポト派による虐殺。
でも、ルワンダの虐殺はほかの虐殺とはまったく違う。
宗教や文化の違いがないフツとツチがなぜ対立し、殺し合い、そして虐殺事件を経て共存するようになったのかがわたしは理解できなかった。

a_DSC_0368_2015012018483168a.jpg

「虐殺が起きる前はこの村ではツチとかフツとか誰も意識することなく暮らしていたんだよ。」
「じゃあどうやってツチかどうかが判断されたんですか。」
「虐殺前、身分証を調べにくる者がいてそのときにどの家の者がツチなのかリストを作っていったんだ。
でも、とてもあいまいで飼っている牛の数で判断された人もいた。
身分証の表記はフツでもたくさんの牛を飼っていればツチとされた。
そしてフツであっても、ツチと結婚していればツチと同一視された。」

「それまではフツかツチかなんて意識せずに仲良く暮らしていたんですよね。
突然虐殺が起きたんですか?
それともその前から不穏な空気が流れていたんですか?」

「虐殺が起きる1年ぐらい前かな。
ツチが飼っている牛が奪われたり、勝手に家に入られて物を横取りしていくようなことが起きていった。
わたしたちも飼っていた牛をそのときに奪われたんだ。
反発しても聞き入れてもらえない。
人のものを勝手に奪っていくので法に触れているのに、奪った者たちは罪にとらわれない。」


その当時ルワンダは経済的に厳しい状況に置かれていた。
失業率も高かった。
ルワンダで家畜をもっているというのは財産をもっているということ。
一般の人たちが虐殺に手を染めていったのはツチに対する妬みにも似た感情があったからかもしれない。

なぜ民族の違いなんて意識することなく共存してきた人たちが、突然あんな虐殺をすることになったのか。 
おじさんの話からわたしたちはその経緯がわかってきた。

殺した人、家族を殺された人がともに

2015.01.22 10:16|ルワンダ☞EDIT
ブログは遅れているけど現在、南アフリカを発って南米に向けて移動中でカタールの空港でこれを書いているイクエです。
カタール空港では乗り継ぎに8時間あるんだけど、ひとり2000円以上の食事券ももらえたし「クワイエットルーム」という静かに過ごす仮眠専用の部屋もあって時間を潰すのが苦じゃありません。

1994年に起きたルワンダの大量虐殺。
その年の4月6日にルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領が乗った飛行機が何者かに撃墜され、大統領が死亡したことが引き金となった。
ハビャリマナ大統領はフツ族だった。

「ツチ族が殺したんだ」「ツチ族はフツ族をルワンダから排除しようとしているのかもしれない」「やられる前にツチ族を殺してしまえ」
フツ族の過激派たちはそんなプロパガンダを流し、フツの人たちの恐怖をあおることに成功した。

そしてフツ族が、ツチ族やツチ族との共存を求めるフツ族穏健派たちを殺害していった。
殺されたのはおよそ50万人から100万人とも言われている。
ルワンダ人口の10パーセントから20パーセントにあたる数。
しかもたったの100日間で。
一般のフツ族たちも農耕に使うナタやオノを使って近所のツチ族たちを残虐に殺していった。
名前も顔も知っている人たち。
女性を多数で強姦したり、親の前で小さな子どもの頭を壁に打ちつけて殺したり。

a_DSC_0371_201501201848293c4.jpg

ルワンダの大虐殺を描いた『ルワンダの涙』という事実に基づいた映画がある。
映画に登場する白人の女性ジャーナリストがこんなことを語っていた。

「ボスニアの紛争を取材したときは、殺された中年女性を見るたびに自分の母親と重なって涙が止まらなかった。
でもルワンダでは涙が出ない。
そこにあるのはわたしにとっては、ただのアフリカ人の死体。」


「遠く離れたアフリカ」で起きた「フツ族」による「ツチ族」の虐殺。
正直に言うと日本にいたわたしも、ルワンダの虐殺は悲しい事件とは思いながらも「未開の地で」「野蛮な人たち」が起こしている気がして、どこか現実味が湧かずそんなところでならそんなこともありえるのかなと思っていたような気がする。
でも、アフリカを旅して黒人の人たちに囲まれて生活し、生身の彼らとつきあっていく日常のなかで、彼らを「民族」とか「黒人」として見るのではなく、「自分と変わらない人」としてふつうに接するようになっていた。
まわりにいるのは全員黒人の人。
逆に今は、自分のまわりに日本人や白人の人たちが多いほうが違和感を感じると思う。
だからこそ、ルワンダの大虐殺についてますますわからなくなっていった。
どうして自分と変わらない人たちが、残虐に知り合いを殺し、その後彼らは共存していっているのか。
「ルワンダ人はスーパーポジティブだから」って言われても納得できない。

きっと何かがあって共存できている。
いや、もしかしたら何もできずに共存しているふりをしているのかもしれない。
そしてまたいつか虐殺が繰り返されるかもしれない。

虐殺のことはオブラートに包まれていてわたしたちには踏み込めない。
なにもわからないわたしたちが向かったのはフツとツチとの和解の現場。

a_DSC_0298_20150120124448d5c.jpg

小屋の中からはブヒブヒという元気な鳴き声。
ちょっと緊張していたわたしたちを迎えてくれたのはかわいい豚の親子たち。

a_DSC_0304_20150120184527bec.jpg

a_DSC_0299_20150120184525813.jpg

ここは、フツとツチの人たちが共同でやっている養豚場。
ただたんにフツとツチの人たちが生計を立てるためにやっているわけではない。

フツの人は虐殺の加害者。
当時、誰かを殺した人もいる。

そして危害を加えられたり家族を殺されたりしたツチの被害者。

両者が「和解のプロセス」として、ボランティアで豚を飼っている。

a_DSC_0326_201501201846179d2.jpg

これは現地のNGO「REACH」と日本人の佐々木和之さんが企画しているもの。
佐々木さんはルワンダのフーイエにある大学で平和学を教えておられる方。
実はわたしたちがフーイエでホームステイしたのりちゃんは佐々木先生とお友だちで、食事でもさせていただこうとしていたんだけどちょうどわたしたちと入れ違いに佐々木先生が日本に一時帰国されたのでお会いできなかった。
優しくてとても魅力的な人のようでお会いしたかったし、なによりルワンダの虐殺についてお話をうかがいたかったので残念。

それにしても虐殺のあったルワンダで平和構築についてルワンダ人に教えている日本人の方がいるというのは、とてもすてきだなあと思う。
佐々木先生はもともと農業について学んでいらっしゃった人で、エチオピアの農村の生活向上のためにボランティアとして活動されていたのだそう。
けれどエチオピアで紛争が起こり、せっかく積み上げたものが台無しになり、活動していた地域の若者たちも戦場に送り込まれた。
佐々木先生は平和の大切さを痛感し、イギリスの大学に留学し平和構築について研究。
そしていまのルワンダでの活動にいたっている。

大学のときのわたしの卒業論文のテーマが「旧ユーゴ紛争」だったので、佐々木先生にはいつかかならずお会いしたいなあ。

そんな佐々木先生が行なわれている加害者と被害者によるこの養豚の取り組み。
豚を大きくなるまで飼育して出荷するのかと思ったら、たくさんの子豚を育てることを第一の目的にしてるんだって。
親豚に子豚をつくらせて、その子豚を近所の人たちに配っているんだそう。
そして近所の人たちが自分で子豚を育てていく。
豚は財産になるので、子豚をあげることは苦しい生活をしている人たちの生活のたしになる。

a_DSC_0314_201501201846164ac.jpg

協力隊のやすこちゃんは、自分の活動とは関係ないけれど定期的に訪れてお手伝いしている。
「みんなと話すのは現地語の勉強にもなる。それに楽しいから。」とやすこちゃんは言う。

a_DSC_0317_20150120184615fd8.jpg

やすこちゃんの言うように、ここには重苦しい空気は流れていない。
みんなニコニコした顔でわたしたちを迎えてくれる。
楽しそうにせっせと子豚に餌をあげたり、掃除をしたり。

a_DSC_0332_20150120184618087.jpg

a_DSC_0344_20150120184621d56.jpg

あまりにも穏やかな雰囲気だからここにいる人たちはNGOのスタッフや手伝いにきている人たちなのかもしれないなとも思った。
だからやすこちゃんが「みなさん被害者と加害者なんですよ」っていったときは予想していた事とは言え、びっくりしてしまった。

a_DSC_0312_20150120184531902.jpg

たしかに松葉杖の人もいる。
虐殺のときに襲われたことは、聞かなくてもわかる。

a_DSC_0309_2015012018452838d.jpg

足をめった打ちにされたのか、ナタで傷つけられたのか。
そのときの様子はいまでも脳裏に焼きついているはずだ。
20年経っても足の傷は消えないし、こころの傷だって消えない。

しかもこの男性は妻も殺されている。

それなのに加害者の人たちといっしょに働いている。

a_DSC_0348_201501201847066d7.jpg

もちろん最初から加害者と被害者がいっしょに活動するなんて簡単にできることじゃない。
ここまでくるには長い道のりがあった。

養豚場の取り組みの前身として「償いの家造り」というプロジェクトが行なわれていた。
それは虐殺の加害者が被害者のために家を建てるプロジェクト。

虐殺のとき、被害者の人たちは家も破壊された。
家族を殺され、家を再建する余裕もなく、その後も劣悪な環境での生活を余儀なくされていた人たち。
加害者が罪と向き合い、被害者のために直接家を建てることで謝罪の思いが伝わり、双方の関係が修復されるのではないか。
そんな考えのもと「償いの家造り」のプロジェクトが進められた。
建設費用の多くは、日本で集めた寄付金でまかなわれたのだそう。
200人以上の加害者が参加し、完成させた家は25軒以上。

a_DSC_0295_20150122094640055.jpg

このプロジェクトは「修復的正義」という考えにもとづいて行なわれている。
「修復的正義」というのは、加害者が真摯に罪と向き合い被害者にこころからの償いをすることで両者の関係を修復させていこうというもの。

これに対し「応報的正義」という言葉がある。
これはいまの刑事裁判で取られているもので「悪いことをした分嫌なことを与える」「加害者への恨みをはらすために罰する」という考えがもとになっている。
簡単に言えば応報的正義は、悪を悪で返す。

修復的正義は「反省」「ゆるし」が不可欠で、加害者を罰することが目的ではなく被害者を回復させることが目的。
もちろん修復的正義のほうが人間らしくて理想的だけど、現実はそう甘くない。

わたしが報道記者をしていたとき、我が子を殺された人たちを取材することがあり何度か特集やドキュメンタリーをつくっていた。
遺族の人たちは想像を絶する悲しみを抱え、憎しみや辛さで日常生活がめちゃくちゃにされていた。
「生きていることが辛い」「死んだほうが楽」と考える毎日。

小学生の娘を裸にされて殺され、林に遺棄された父親は、悲しみから仕事もできなくなり生活保護に頼るしかなく、心療内科に通っていた。
娘を殺された悲しみから夫婦仲も前のようにはうまくいかなくなり、離婚して独りで暮らしていた。
その父親が自殺をせずになんとか生きているのは「娘の敵討ちのためにいつかこの手で犯人を殺す」ことを人生の目標にしているから。
犯人が釈放されて戻って来るのを待ち、犯人の故郷に引っ越すことを計画していた。

ほとんどの遺族の人たちは、裁判で犯人に対して「より重い罰」が下ることを望んでいる。
だからといって遺族の傷が癒されるわけではない。
「応報的正義」に基づく日本の裁判の限界もわたしは感じていた。

できることなら「修復的正義」に基づくやりかたのほうが、遺族たちのこころも安らかになる。
でもそれが果たせないでいる。

ルワンダの虐殺のときは、目の前で自分の妻が強姦され殺された被害者の人たちも多いし、子どもの頭を叩き割られた人もいる。
殴られ叩かれ、殺される寸前でなんとか生き延びた人もいる。
そんな人たちが加害者とともに生きていると言うことがわたしには信じられなかった。

佐々木先生たちは「修復的正義」のプロセスを丁寧に進めていったようだ。
加害者が被害者の家を建てることをいきなり始めてもうまくはいかない。
加害者は被害者と接する前に、被害者がどんな思いで生きているのか知る必要もあるし、しっかりと罪と向き合いこころから謝罪するとはどういうことなのか考えないといけない。

そのために佐々木先生たちは加害者を対象としたセミナーを開いた。
被害者の人に自分がどんなに辛い思いをしてきたかを加害者の前で語ってもらった。
加害者たちは被害者のこころのなかを想像し、そして自分の罪とも向き合った。
自分たちが殺した相手は、自分たちと同じように生身の人間であったこと。
生きていくのが辛いほどの悲しみを与えてしまったこと。
自分たちがやったことは、とんでもないことだったこと。

被害者に謝罪するときにどんなことに気をつけるべきかということもセミナーでは教えられている。
佐々木先生の活動を紹介するFacebookのページにゆるしを求めるときの注意点があげられていた。

1、自分の謝った行動の内容について明確に述べ、その責任を負うと宣言する。
2、「もしあなたを傷つけたのなら」のように、「もし」をつけて謝罪しない。
3、傷つけられた側を決して責めたり、その人たちの落ち度を指摘しない。
4、軽々しく謝罪しない。
5、謝罪しながらお説教をしない。
6、赦しを要求しない。
7、加害行為の内容や背景について説明はしても言い訳はしない。
8、謝罪の後、なし得る限りの賠償や返還の方法を誠実に探し実行すること。

わたしが日本で遺族を取材していたときも、加害者の言い訳がましい謝罪が被害者遺族を逆なですることを感じてきた。
「そんなつもりでやったんじゃない。」「もう謝ってるでしょ。終わったことをこれ以上どうすればいいの。」「こっちだけが悪いわけではない。」「あのときは仕方なかった。」「こっちの気持ちもわかってくれ。」
自分に甘くなったり、自分を正当化したり。

罪と向き合うことは加害者にとってもつらいこと。
できれば考えないようにしたい。
いま、わたしの目の前で子豚に餌をやっている加害者の男性もさまざまな困難を乗り越えながらこのプロジェクトに参加しているのだと思う。

ルワンダでフツ族とツチ族がなぜ共存できているのか。
虐殺から目を背けているんじゃないか。
臭いものに蓋をするように、考えないようにしているのではないか。
共存はうわべだけのものじゃないか。

ここに来る前はそんなことも思っていた。
だけど、被害者も加害者も想像を絶する辛さや葛藤と向き合いここまで生きてきたのだと悟った。

わたしたちは松葉杖の男性から話を聞くことにした。
松葉杖なしでは歩けないようにされ、妻を殺されたにも関わらず、どうして彼が加害者たちをゆるせるようになったのか。
その理由が聞きたかった。

a_DSC_0297_20150120124446558.jpg