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2016年2月14日に帰国!
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ケンゾー   イクエ


2007年10月 結婚
2012年09月 世界旅行に出発

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「旅」を旅っぽくするには?

毎日鶏肉ばかり食べているイクエです。
外食すると、まったく野菜がでてこない。
ビタミン不足のはずだけど口内炎にもならないので不思議。
野菜のかわりにフルーツでビタミンを補おうかな。

お墓と銃弾の跡ばかりの首都サラエボ。
戦争の悲しみを背負っている首都がこれから迎えるのは平和な時代であることを願いながら、この街を発つ。

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次に行くのは世界遺産の橋がある街。
異なる民族をつなげる架け橋がある街は、モスタル

モスタル

直通バスもあるけれど、きょうもヒッチハイクに挑戦することにした。
目的地はモスタルだけど、130キロはありそうなのではじめからモスタル行きの車をつかまえるのは至難の業。
刻んで少しずつ近づこう。
地図を見ながら、サラエボからモスタルの間にある街の名前を紙に書いていく。

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ヒッチハイクをする場所は、モスタルへ通じるハイウェイの入口。
そこまで路面電車で行く。
サラエボの路面電車は1885年から運行されていて、朝から夜までの終日運行がヨーロッパではじめて取り入れられたのだそう。
最先端の街だったんだ。

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ヒッチハイクしやすい場所までわざわざ路面電車で移動することは面倒に思えるかもしれないけど、そんなことはない。
だって、サラエボからモスタル行きのバスや列車に乗るにしてもどうせバスターミナルや駅までは行かないといけないから。

ちなみにサラエボの街には長距離バスターミナルが2か所ある。

ひとつは駅の近くで、クロアチアや西ヨーロッパ、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦国内を結ぶ便が発着している。
つまりボシュニャク人が利用するバスターミナル。

そしてもうひとつは南側のセルビア人地区にあるバスターミナルで、セルビアやモンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ内にあるスルプスカ共和国の街を結ぶ便が発着している。
こちらはおもにセルビア人が利用するバスターミナル。

イスラム教徒が多く住むボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が多く住むスルプスカ共和国。
見えない境界線が街を分断し、2つの異なる国がサラエボにも存在しているかのよう。

わたしが大学の卒業旅行でボスニアに滞在していたとき、空きアパートを借りていた。
ボスニアの次の目的地はベオグラードで、セルビア人側のバスターミナルに行く必要があった。
夜行バスだったので出発は深夜。
アパートのオーナー夫妻が、夜中にバスターミナルまで車で送ってくれることになった。

セルビア人ではなかったオーナー夫妻。
突然真っ暗な道ばたで車を止めた。
「ほら!はやく降りて!!この道をもう少し歩くとバスターミナルに着くから。むこうに明かりが見えるでしょ、あそこよ。」

わたしはびっくりした。
こんな深夜にこんな暗い場所に異国の20代の女の子を荷物とともに置き去りにするなんて、ちょっと冷たすぎない?
あと100メートルか200メートルくらいで着くなら、そこまで送ってくれればいいのに。
とまどうわたしを夫妻は急かせる。
「ここからはセルビア人たちが住んでいる場所だからものすごく危ないの。なにされるかわからない。でも、あなたは大丈夫だから!早く!」

わたしが車から降りるやいなや、猛スピードでUターンして帰っていた。
わたしはあっけにとられて、小さくなっていく車を見つめていた。
紛争が終わって何年も経つのにまだ見えない境界があることにショックを受けながら、その先に見える灯りを目指し真っ暗な道を歩いたのを覚えている。

あのときから、この街は変わったのだろうか。

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ヒッチハイクをはじめて30分もしないうちに1台の車が止まってくれた。
窓に取り付けるブラインドをつくる工場で働いている人で、仕事に行く途中だった。

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紛争が終わってずいぶん経つけれど、まだ民族や宗教の話はデリケートなものでこちらから聞くのはタブー。
男性がどの民族に属するのかはわからないけど、ボスニアの感想を聞かれて「緑がきれいで自然が多くて人々が優しいから、とてもすてき」と言うと、「そうだろう!」と笑顔で喜んでくれた。

男性にお礼を言って、ふたたびヒッチハイク開始。

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なかなか車が止まらない。
わたしたちは1時間半くらいは粘るけれど、それ以上がんばっても車が止まらないときはヒッチハイクをあきらめることが多い。
1時間半と考えれば30分くらい車が止まらないのは、なんてことはない。
今回も30分くらいで車が止まってくれた。

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いざ車に乗ると、後部座席の足元には車の屋根に取り付ける「TAXI」のプレートが転がっていた。
きっとタクシー運転手で、きょうは休みの日だったんだ。

行き先を告げたものの、英語は通じなかった。
わたしたちがヒッチハイクをしていることをわかってくれてるかな。
降りるときに料金を徴収されないかな。

どうなるかなあと思っていたけど数十キロ進み、「自分はこの道を曲がるから」とそのまま降ろしてくれた。

ヒッチハイクは路上に立って車をつかまえるときもドキドキだけど、乗っているときもドキドキする。
英語が通じないことのほうが多いし、外国では白タクも多いから、わたしたちがヒッチハイクをしていることを理解してもらえているか不安。
しかもどこで降ろされるかわからないので、内心は「1キロでも遠くまで乗せてくれますように」と願いながら乗っている。

すごろくで自分の番がくるのを今か今かと待ち受けるように、路上で止まってくれる車を待つ。
自分の番がくると「少しでもゴールに近づけますように」とドキドキしながらサイコロを転がすように、いざ車に乗せてもらうと「少しでも先に行ってくれますように」と願う。

今回降ろしてもらったのは、山の中の峠道。
ふたたびヒッチハイク。
先にはトンネルがあるし、手前はカーブが続いているし、車を止めにくそうな場所。

炎天下で喉が渇く。

持っているペットボトルの水がなくなりそうだけど、水を買えるようなお店はない。
幸いにも湧き水がでているところを見つけて、しのぐ。

場所が悪いのかなあ。
100メートル、前や後ろに移動してみたけど効果なし。

さっきから野良犬がつきまとってくる。
ケンゾーが大の犬好きだということをこの犬は悟っているのかもしれない。

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「車が止まらんのは、コイツのせいやない?」
「わたしたちのペットと思われて、この犬もいっしょに車に乗せないかんって勘違いされとるとかな?」

1時間半が経過。

犬を追い払っても犬はいっこうに離れてくれない。
犬から距離を置こうと移動してもついてくる。

そして、ようやく1台の車が止まってくれた。
若い男性二人組。

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最初に聞かれた。

「この犬もいっしょに乗せるの?」

やっぱり!!

「ノー!ノー!ノー!!!

コイツのせいでヒッチハイクがうまくいかなかったのね。

男性2人は友だち同士で、これから湖に泳ぎに行くのだそう。
運転しているお兄さんはなんとスペイン人。
サラエボの大学に留学してるんだって。
サラエボに留学するなんて、なかなか渋い。
大きなピアスにタトゥー。
パンク系のお兄さん。

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この車、かなりの年代物。
スペインからやってきて、ボスニアで中古車を買ったんだって。

「いくらで買ったの?」
「400ユーロくらい」
「やっすーい!」

海外では、日本じゃ道路を走ってないようなポンコツ車をよく見る。
日本だととっくに廃車になってるような車を、20年も30年も使い続ける。
どうして海外ではまだ通用するような中古車が日本だと廃車になっちゃうんだろうね。
たぶん車検が厳しくて、ポンコツ車だと余計に整備にお金がかかっちゃうからかな。

車はスピードを上げて走っているのに、助手席のお兄さんがいきなりドアを開けた。
何ごと?

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「エアー コンディション!」

もちろん、この車はエアコンなんて効かない。
車内が暑くなると、こうやって走るんだって。

「ボスニアンスタイル!」と笑って説明する。

この2人、ちょっとぶっ飛んでいるので冗談半分でやってるのかなってこのときは思っていた。
でも、この後ほかの車でもドアを開けているのを何台か見たので、ほんとうに「ボスニアンスタイル」だったみたい。

まもなくすると、緑色の川が見え始め、湖が近いことを教えてくれた。

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湖というか、ダムのようになっている。
たくさんの人が泳ぎに来ていた。
海水浴もいいけれど、こんな森に囲まれた大自然のなかの波のない静かな水の中でのんびり泳ぐのも気持ちが良さそう。

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ノリのいいお兄さんとはここで別れを告げて、次の車をつかまえる。
すぐそこの街までしか行かないようだけど、1キロでも2キロでも先に進めるのならありがたい。

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今回運転していた男性にもほとんど英語は伝わらない。
わたしたちがどうしてこんな田舎で車をつかまえているのか、バスや電車に乗っていないのか理解できずに不思議そうにしていた。

そして男性が降ろしてくれたのは街のバスターミナル前。
「ここからモスタル行きのバスがでてるから。」
「ありがとうございます。」

とは言ったものの、わたしたちはバスターミナルを横目で見ながら再び路上に立つ。

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車は止まらない。

そりゃ、そうだよね。
こんなバスターミナルの前でヒッチハイクしていても「バスに乗ればいいのに」って思われるに決まってる。

「これ、無理だよね。」
「バスターミナルから離れよう。」

わたしたちはトボトボと先へと歩きはじめた。

ゴールのモスタルまでまだ半分ある。

するとさっきの湖よりももっと深い緑色の川が見えた。
もしかしてここは・・・。

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崩れ落ちた鉄橋。
橋のたもとに止まったままの機関車。

実はこれ、映画のセット。

ユーゴスラビアの実話をもとに1969年につくられた『ネレトバの戦い』という映画。
アカデミー賞候補にもなった映画はこの場所で撮影された。
そのときに作られた崩れた鉄橋が、記念にそのままにしてあるというのをインターネットで見たことがある。
来るつもりはなかったけど、それがこの街だったんだ。

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ネレトバの戦いとは、1943年、チトー率いるユーゴスラビアのパルチザンとドイツ軍やイタリア軍などからなる枢軸軍との戦い。

枢軸軍からネレトバ川の谷間に追いつめられ、逃げ場を無くした劣勢のパルチザン。
パルチザンが唯一逃げることができる橋も、対岸では敵が待ち構えている。
そんななかパルチザンは、自分たちでわざと橋を爆破する。
そうやって敵の目をあざむき、相手がそこから退去し手薄になっている間にこっそりと仮の橋を一夜がかりでつくり、対岸に渡って窮地を脱したという話。

映画にもなっているその作戦がパルチザンを勝利へ導いたとされる。

パルチザンが勝ったことで、ユーゴスラビアは民族の垣根を越えてひとつの国となり、複数の民族が共存する社会になった。

それなのにそれから50年後、民族同士の争いが起き、結局はバラバラになってしまった。

異なる民族が共存することは不可能なことなのだろうか。
それでも50年間共存できていたという事実に希望を見いだしたいなと思う。

ヒッチハイクをしていたら、1台の車がUターンして戻ってきてくれた。

おじさん2人組。
クロアチア人でクロアチアに住んでいるけど、ボスニアでホテルを経営しているのだそう。

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おじさんのホテルはモスタルの近くにあるメジュゴーリエという村にある。
1981年に6人の子どもたちが聖母マリアを目撃したとされ、それ以来奇蹟の場所として教会が建ちカトリック教徒たちの巡礼の地となった村。
おじさんのくれた名刺にはそのカトリック教会の写真が載っていた。

ボスニア・ヘルツェゴビナというと、ボシュニャク人のイスラム教徒とセルビア人がそれぞれ住んでいて内戦では両者が争ったことがクローズアップされるけど、それだけじゃなくてカトリック教徒のクロアチア人もたくさん暮らしている。
内戦では、この3者が殺しあった。

これから行くモスタルは、イスラム教徒のボシュニャク人とカトリック教徒のクロアチア人が戦いあった場所。

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車は緑の川が流れる渓谷を走っていく。
すぐ近くに迫る岩山がかっこよくもあり、美しくもあり。

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サラエボからモスタルまでは列車でも行けて、バスに比べると運賃もずいぶん安い。
しかも緑の川や湖、渓谷や岩山といった迫力あるボスニアの大自然を車窓から楽しめる景勝ルート。
骨の折れるヒッチハイクよりも列車のほうが何も気にすることなく純粋に景色を楽しめる。
だから列車の旅はすてきだろうなって思う。

それでも、ヒッチハイクをしてよかった。

ヒッチハイクをすると時間も労力もかかるけど、「旅」が旅っぽくなるから。

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きょうという日はただの移動の1日になるはずだったけど、思い出深い旅の1ページになった。

車は目的地、モスタルへと入った。
クロアチア人のおじさんがわたしたちに尋ねた。
「ホテルはどこ?
 どこで降ろさせばいい?
 ムスリム側?クロアチア側?」

世界遺産の橋は、ネレトヴァ川に架かっている。
橋を挟んで、東側がイスラム教徒の居住区、西側がクロアチア人居住区。
わたしたちの泊まるホテルはイスラム教徒地区にあったけど、「どちらでもかまいません」と答えた。

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クロアチア人のおじさんは、橋を渡りわたしたちを降ろしてくれた。
カトリック教会の大きな塔が見えた。
ここがクロアチア人居住区だとわかった。

そして、戦渦で廃墟となった建物。

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ここモスタルも内戦のときは戦場となったのだった。
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不幸なオリンピック会場と美しくないバラ

もうすぐ40歳になる夫を前にして「出会ったときはこの人はまだ20代だったのに、もう人生の折り返しかあ」と思い、せつなくなるイクエです。

ユーゴスラビア紛争の舞台になったサラエボ。
紛争の前までは、イスラム、セルビア正教会、カトリック、ユダヤ教・・・とさまざまな宗教の人が仲良く暮らしていた、多様性のある街として最先端をいっていた国際都市だった。

それなのに、ちょっとしたきっかけで自分とは違う宗教の人が敵となり、疑心暗鬼になり、内戦となった。

内戦が終わり、旧ユーゴスラビアが解体してクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・・・と分かれた今、クロアチアはカトリック教徒、ボスニア・ヘルツェゴビナはイスラム教徒、セルビアはセルビア正教会の人がそれぞれ多数派となった。
とはいえ、今でも異なる宗教の人たちが混在していることに変わりはない。

サラエボには、半径500メートル以内に異なる宗教施設が存在する。

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カトリック教会のサラエボ大聖堂。
サラエボの旧市街は、スカーフを巻いた女性が歩き、街並みもまるでイスラム教徒の国のようだけどそんな街に、このカトリック教会の鐘の音が鳴り響く。

その近くにはユダヤ教徒の大きなシナゴーグがある。

さらにはひっそりとたたずむセルビア正教会。

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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、街がセルビア軍に包囲され攻撃されたサラエボ。
サラエボ市民の敵となったセルビアだけど、いまでもこの地に住むセルビア人は多い。

そして、毎日何度もモスクのスピーカーから流れるアザーン(礼拝の時間を知らせる呼びかけ)。
鐘の音とアザーン。
宿の部屋にいても、ここが多宗教の街だと教えられる。

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モスクには若い人たちも礼拝のために集まる。
いままでイスラム教の国は何か国も旅してきたけれど、いかにもヨーロッパの顔つきの人たちが礼拝しているのは見慣れなくて違和感を感じる。

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10年前に訪れたときよりも、民族主義は強まっているように思える。

スカーフを巻く女性が多くなっている気がする。
セルビアでも以前はアルファベットの看板が多かったのに、今ではほとんどがキリル文字になっていて驚いた。

多様な宗教、文化が共存していた街は消えようとしている。

第二次世界大戦後、サラエボは急速に発展していった。
多様な文化に彩られ、さまざまな民族が共存するサラエボは、世界のモデルともいえる街だった。
そんなサラエボで1984年、冬季オリンピックが開かれた。

オリンピックが開催され、さらに勢いがつき、国全体が発展していくかに見えたユーゴスラビア。
オリンピック開催からわずか8年後に、この国ですさまじい内戦が起き、楽しいオリンピックの地だったサラエボが戦場となるなんて誰が想像できただろう。

平和な時代を象徴するような冬期オリンピックの施設。
スタジアムやグラウンドはいまもサラエボの街に存在し続けている。

ただし、あのときとは形を変えて。

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グラウンドはいまでは墓地となっている。
紛争中、犠牲者を埋めるスペースもない状況のなかの苦肉の策だったのだろう。

五輪マークのついた塔は、白い墓標を前に存在感がない。

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遺体を埋葬するときもセルビア軍の攻撃は続いたという。
砲撃を避けて、埋葬は早朝か日暮れに行なわれた。

整然と隙間なく並ぶ墓標。
それは、人が日常的に特別なことでもないかのように殺されていき、淡々と機械的に埋められていったことを物語っているかのよう。

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そのとなりには、セルビア人やクロアチア人の墓地もある。
墓地だらけの首都。

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サラエボの東西を貫く大動脈で、路面電車の走る幹線道路は「スナイパー通り」と呼ばれる。
まっすぐに伸びる見通しのいい道路。

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内戦当時は、ここを通る車や歩行者は、高層ビルに潜むセルビア人狙撃兵の標的となった。
子どもも老人も被害にあった。

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以前訪れたときにはなかった近代的なビルが建っていた。
内戦当時は人が寄り付かなかった道路は、再び街の目抜き通りとなっている。

けれど、ここに無数の銃弾や砲弾が飛び交っていた事実は今でも想像できる。

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スナイパー通りにあるホテル「ホリデイ・イン」。
かつて、世界から集まったジャーナリストたちがここに宿泊し、紛争取材の拠点としていた。
世界的なホテルチェーンとあって、設備もしっかりしているし警備もそれなりで、ジャーナリストたちが前線で泊まれる唯一のホテルだったのかもしれない。

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でも、安心して泊まれたかと言えばそうではない。
紛争当時は水も電気も使えなかった。
さらに、このホテルもスナイパーの標的になっていた。

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紛争中、セルビア軍に包囲されていたサラエボ。
そのときの状況を表す地図がこれ。

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赤い部分がセルビア軍の勢力範囲。
サラエボの繁華街は、その赤に囲まれた白い部分。
上の方の白い部分は、セルビア軍ではなくボスニア軍が管轄していたいわば「自由な」ボスニアだった。

地図を見てもわかるようにサラエボの街は完全にセルビア軍に包囲されていたかというと、そうではない。
上に抜ける部分が少しだけあいている。

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でもその部分にあるのは空港。
国連の管理下にされてはいたものの、つねにセルビア軍が監視していた。
なので事実上、サラエボ市民が自由に出入りできるところはなく、街は孤立化していた。

人口の多いサラエボの街では、外から物資も運べず食料も衣料品も不足していく。

地図の上の部分、つまり空港の向こう側のセルビア軍の勢力範囲外だった地区に行ってみた。

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爆撃された家。
ここにも戦争の跡は残る。

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それでもスナイパー通りなんていうものがあり、毎日平均して300以上の砲弾が撃ち込まれたサラエボ市街地に比べれば被害は少なく、空き地や畑が広がるとてものどかな場所。

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向こう側に見えるのは、建物が建ち並ぶサラエボの繁華街。
当時はあそこが包囲されていたことになる。

そして空港。
陸の孤島だったサラエボ市街とこちら側を閉ざすゲートのように横たわっている。

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セルビア軍に包囲されていたサラエボの街。
けれど実はこちら側とあちら側をつなぐ、秘密の地下トンネルがあった。
全長800メートルのトンネルは、いまでもその一部が残されて公開されている。

トンネルの入口はどうなっているのか。
セルビア軍にトンネルの存在を悟られてはいけなかった。

そのトンネルの入口はこんなところだった。

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民家。

無数の銃弾を受けて壁は蜂の巣のようになっているこの民家の地下に、秘密のトンネルは隠されていた。

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事実上孤立していたサラエボと外界とを繋げる生命線。
こっそりと掘られたトンネル。

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このトンネルを使って、包囲されたサラエボの街に食料や衣料品、セルビア軍と戦うための武器などが運ばれていた。

レールが敷かれ、滑車で荷物や人を運んでいたのだそう。

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戦場へ通じるトンネルの外は、静かな住宅地帯。
芝生の庭が広がり、花が咲き誇り、子猫たちが無邪気に遊んでいた。

ネコ好きでなくても、思わず「かわいい~」とつぶやきたくなる。

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生き物を愛おしく思う気持ち。

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抱きしめてその体温にほっとして、なでたくなる衝動。

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小さくて弱いものを守りたくなる気持ち。

そんな本能を人間誰しもがもっている。

なのに、どうして簡単に人と人が殺しあうのだろうか。

「大切な人を守るため」というのは、戦争をしたい政治家たちが好んで使う言葉。
相手を殺すことで、自分の家族が殺されないかといえばそうではない。
相手を殺さなかったなら、自分の家族が殺されるかといえばそうではない。

戦争をやめることこそが、それ以上の犠牲者を生まないこと。

小さな生き物を愛おしく思える人間。
美しいものを美しいと思える人間。

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太陽の光を受けて、赤く輝く美しいバラ。
「きれいだなあ」と思う。

サラエボの街の路上には「サラエボのバラ」と呼ばれるいくつものバラが激しく咲いている。
道に落とされた爆弾の跡に赤い樹脂が埋められたもの。

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砲弾を受けて、人が血を流して死んでしまった場所。

「サラエボのバラ」は、まったく美しくない。
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