小さいころから掃除がたいへん苦手なイクエです。
テキパキさっさと片付けるってことができなくて、一度取りかかるとチンタラチンタラ。
大掃除で家のお風呂場掃除を任されると2日くらいかけていた。
自分の部屋の掃除は3日あっても足りなかった。
どこから手をつければいいかわからないし、少しでも汚いと気になって全部を完璧にしないと気が済まない。
でも今は手を抜くこと、要領よくやること、パッパとやってしまうことを覚えたけどね。

キューバ最終日を迎えたイクエとケンゾー。
キューバは意外に広くて、3週間はあっという間だった。
フライトは夕方。
最後にハバナでやり残した観光をすることに。
ゲバラやカストロのほかに「キューバと言えばこの人!」と言える人がいる。
その人がよく泊まっていたホテルが、オビスポ通りにあるホテル・アンボス・ムンドス。
ここで『誰がために鐘は鳴る』を執筆した。


その人の名は、アーネスト・ヘミングウェイ。
ノーベル文学賞を受賞したアメリカ人の小説家。

釣りが大好きだったヘミングウェイ。
彼が、カリブ海の常夏の島、キューバを気に入るのも必然だったのかもしれない。
1940年にキューバに移り住み、20年間もキューバで過ごした。
常宿だったホテル・アンボス・ムンドスには、カストロ氏と握手を交わしている彼の写真も飾ってある。

彼が決まって泊まっていたのは511号室。
ここで小説を書いては通りに出向き、行きつけのバーで一杯ひっかけていた。
彼がお気に入りだったバーはふたつ。
ひとつはオビスポ通りの入口にあるFloredita(フロリディータ)。
ここでダイキリを注文していた。
そしてもうひとつ。
La Bodeguita del Medio(ラ・ボデギータ・デル・メディオ)。

ここでヘミングウェイが飲んでいたのはモヒート。
昼間っから飲むことも多かったという。

ふたつのバーはいまではツーリストが押し寄せる観光地となっている。
ヘミングウェイが飲んでいたカクテルを注文し、写真を撮る外国人でいつもにぎやか。
もちろんほかの店に比べてカクテルの金額は高い。
1杯6CUC(約6ドル)。

酒好きのケンゾーはキューバに行く前から、ヘミングウェイ行きつけのバーでカクテルを飲むことを楽しみにしていた。
でも、キューバでできるだけローカルな旅をしたきたわたしたち。
観光客用のバーで高いお金を払って飲む気が、すっかりうせてしまっていた。
バーに行かない代わりに、わたしたちはある場所に行くことにした。
ヘミングウェイの足跡を訪ねる旅。
キューバ最終日、ハバナからの小旅行。
歩いて向かったのはハバナ湾の港。
対岸へ、渡し船に乗って。
運賃は1モネダ(約5円)。

運河を渡るこの船は、地元の人たちの足。
ゆっくりと離岸。
旧市街の街並みを海越しに眺めながら。

この運河はカリブ海へと注いでいる。
両岸を結ぶのはこの渡し船だけではない。
海底トンネルがあって、バスに乗ればそのトンネルをくぐることになる。
帰りは海底トンネルを通って帰ることにしよう。

旧市街と運河を隔てた場所がカサ・ブランカ地区。
およそ5分のあっという間の船旅。
船を降りたわたしたちを待っていたのは、かわいい駅舎。
ここから東に向かう列車、ハーシー線。
いまも現役で、今回わたしたちもこの列車に乗ってハバナに戻ってこようかとも思っていたけど、時間がなくてその計画をやめたのだった。
こんなところでお会いできるなんて。
ハーシー線のカサ・ブランカ駅はとても小さい。
ホームもあってないようなもので、列車というより路面電車。

ハーシー線のハーシーは、アメリカの大手チョコレートメーカーHershey's社にちなんだもの。
菓子を製造するときに欠かせないサトウキビを運搬するために敷設された。
鉄道は東のマタンサスまで延びていて、かつてはハバナ郊外の製糖工場やサトウキビのプランテーションなどを結んでいた。
ハーシー社が独自につくったものだが、革命後は国有化されて今では人を運んでいる。

現役とは思えないほど古びている車体。
キューバは車もレトロだけど、列車もレトロ。
外からのぞいていたら、駅員さんに入っていいよと言われた。
これで今も動いているんだからすごい。

こんなレトロな座席見たことない。
そのまま昔の映画に使えそう。
もうちょっと余裕があったら、これでキューバの田園風景を見ながら移動したかったなあ。

ガタンゴトン、ガタンゴトン。
揺れるしシートは硬いし、座り心地は決してよくないと思う。
でも、カミオンよりも何倍も楽で、ワクワクする移動になりそう。

カサ・ブランカ駅の向かいの坂を上って行く。
カバーニャ要塞を横目に見ながら坂を上りきると、そこは展望台になっていた。
ハバナ湾と運河を隔てて、ハバナの市街地が広がっている。

キューバに来る前「キューバだけは特別」「あそこは昔の時代をそのまま閉じ込めたような街並み」って聞いて、想像をふくらませていた。
映画のセットのような街並みなのかなーって。
でも、実際はかなりごみごみしていて雑多で生活臭が漂っていて建物は老朽化で今にも崩れそうで、アジアの下町を彷彿とさせた。
小綺麗ではない。
でも、けっして嫌いではない雰囲気。

宿も観光も旧市街だったので、新市街はほとんど見ていない。
だから、ハバナのイメージは新しい高層ビルなんてほとんどない、古い街。
でもこうやってみると、ハバナにもけっこう大きなビルができている。
こんな建物がこれからどんどん増えていくんだろうな。

このハバナの街を見下ろす静かな高台に、あの人が暮らしていた家がある。
その人は、ここで暮らし、風に吹かれて街並みを見ながら何を思っていたのか。

住人の名はチェ・ゲバラ。
彼はキューバで革命を起こしたとき、28歳と若かった。
革命が成功した後は国立銀行総裁、さらに工業大臣になった。
カストロはゲバラよりも2歳年上。
改めて考えると、30歳そこそこ、もしくは20代の若者たちが武器を持って政府軍と戦い、政府を追い出し、政権を取るというのは衝撃的なできごと。
一党独裁の国家元首となったカストロはいまのわたしよりも若かったし、国のトップに立つ大臣たちも若者。
彼らよりも年上の市民たちは、突然のし上がった若いリーダーたちに文句も言わずによくついていったなあと思う。
ゲバラなんてアルゼンチン生まれの白人。
30歳ぐらいの外国人が突然やってきて、国のリーダーになる。
そんなの普通に考えたらありえないこと。
そんなゲバラもいまはキューバを代表する人物で、キューバ人たちは彼を敬愛している。
カストロの政策が功を奏したことを立証している。
ゲバラの邸宅を通り過ぎ、わたしたちはバスをつかまえた。
これから向かう場所はCojimar(コヒマル)。
ヘミングウェイが好きだった場所。
30分もしないうちにバスを降りた。
ハバナの中心地からそれほど離れていないのに、まったく違う空気が漂っていた。
コヒマル、いいやん!!
ヘミングウェイ、いいやん!!

ここは全然都会じゃない。
静かな「漁村」。
静かでまったりした時間が流れている。
沖縄の離島のような雰囲気。

わたしもケンゾーもヘミングウェイのファンでもなにもない。
わたしは高校のときヘミングウェイの代表作『老人と海』を読もうとしたけど、途中で飽きてしまって最後まで読めなかった。
ケンゾーは『老人と海』を読破したことはしたらしいけど、老人の漁師が主人公ということくらいしか覚えていない。


ヘミングウェイのイメージは、ハバナのオビスポ通りのイメージだった。
外国人観光客が闊歩し、高級ホテルやレストランやバーが軒を連ねる華やかな場所。
そこのホテルに泊まり、バーで酒を飲むヘミングウェイ。
でも、この場所はあのオビスポ通りとは真逆の雰囲気。
ほんとうのヘミングウェイは、こっちのイメージに近いのかもしれない。

このコヒマルは『老人と海』の舞台になったところ。
釣りが好きだったヘミングウェイの愛艇もこの港につながれていたという。
ローカル感漂うこの静かな漁村に、ヘミングウェイの胸像がある。
もちろんヘミングウェイは海を見ている。
コヒマルの住民たちが建てたもの。

観光客であふれるオビスポ通りのバーには行かなかったわたしたち。
その代わり、この小さな漁村のコヒマルでお酒を飲むことにした。
ひなびた漁村のなかに、コロニアルな建物が海に面して建っている。
La Terraza(ラ・テラサ)。

ヘミングウェイはコヒマルに来ると、この店に立ち寄っていた。
ここで、地元の釣り仲間たちと話をするのが楽しみだったという。

『老人と海』の主人公のモチーフになったと言われているのが、ヘミングウェイの船の船長を務めていたグレゴリオさん。
長生きした彼は2002年に104歳で逝去するまで、毎日ここに通っていた。

壁にはグレゴリオさんの肖像画のほかに、いくつかの写真が飾られている。
ここから船でカジキマグロ釣りに興じていたヘミングウェイの写真。
「ヘミングウェイカップ」という釣り大会で、カストロが優勝したときのツーショット写真。

キューバ革命でアメリカの傀儡政権が追い出され、多くの親米家がアメリカに亡命した。
アメリカ人のヘミングウェイも革命中はアメリカに逃げていたものの、すぐに愛するキューバに戻ってきた。
キューバ国民たちも彼が戻ってきたことを喜んだという。
しかし、そのためにヘミングウェイはアメリカ政府に監視され、精神的に追い込まれていたらしい。

部屋の角の、海が見えるテーブル席。
ヘミングウェイの特等席だった。
今でも特等席のまま。
実はハバナのオビスポ通りのヘミングウェイの行きつけだったバー、フロリディータにもヘミングウェイの特等席だったところがある。
カウンターのいちばん奥。
少し古いガイドブックの写真を見ると、ここみたいにロープで区切られ、誰も座れないようになっていた。
主はいまはいないけど、いつでも帰ってこられるように取ってある。
もしかしたら、誰にも気づかれないように今もこっそりそこで飲んでいるかもしれない。
そんな想像力が引き立てられる。
でも、いまフロリディータにはヘミングウェイの等身大の像が設置されている。
記念写真ポイントになっている。
趣がなくなってしまった。
ここみたいに、そのままのほうが雰囲気があるのに。
ヘミングウェイの特等席の窓からは、いまも海の男たちの姿が見える。


この漁村は、ハバナの中心地から近いと信じがたいほど、静か。
ここだけの時間が流れている。
もしキューバの旅で時間がない人は、ここを訪れてほしい。
華やかなハバナでは見られない、キューバの原風景が見られる場所。
時間がない人は、ハバナと高級リゾートが建ち並ぶバラデロに滞在するけれど、バラデロよりもここで過ごしたほうがキューバの雰囲気を肌で感じることができるんじゃないかな。
コヒマルに宿泊施設があるかわからないけど、もしここに泊まれればここからハバナの中心地に日帰りで行くことも簡単。
ここに泊まってハバナ観光もいいと思う。

ヘミングウェイが飲んでいたダイキリを注文。
1杯3CUC。
ハバナのバーの半分の値段。
帰国したら、ヘミングウェイの作品にもういちど挑戦しようかな。

飛行機の時間が迫っている。
そろそろハバナに戻らないと。
バス停まで歩いていると、使い込んだ愛車の塗装をしている男性がいた。
もう50年以上も使っているんだそう。
日本ではとっくに廃車となっているような車。
でも、この車にはたくさんの思い出が詰まっている。
男性の家族の歴史を見届けてきた車。
色を塗り替えられた車は、これからも家族の歴史を見守っていくだろう。

宿に置いていたバックパックを取り、わたしたちはハバナの旧市街からふたたび満員のバスに乗って空港へと向かった。
建物にチェ・ゲバラが大きく描かれた革命広場が車窓から見えた。
ゲバラと同じ時代を生きたフィデル・カストロ氏はいま89歳。
高齢で体調がすぐれないと噂されている。
そのうちカストロ氏の肖像も、ゲバラの隣に並ぶのかもしれない。
国家元首の座を譲り受けた弟のラウル・カストロ氏もすでに84歳。
彼らのあと、キューバのリーダーをどんな人が引き継ぐのだろうか。
飛び立った飛行機から、夕焼けが見えた。

キューバもひとつの終焉を迎えようとしている。
そして、新生キューバの夜明けはすぐそこまで来ているのかもしれない。
テキパキさっさと片付けるってことができなくて、一度取りかかるとチンタラチンタラ。
大掃除で家のお風呂場掃除を任されると2日くらいかけていた。
自分の部屋の掃除は3日あっても足りなかった。
どこから手をつければいいかわからないし、少しでも汚いと気になって全部を完璧にしないと気が済まない。
でも今は手を抜くこと、要領よくやること、パッパとやってしまうことを覚えたけどね。

キューバ最終日を迎えたイクエとケンゾー。
キューバは意外に広くて、3週間はあっという間だった。
フライトは夕方。
最後にハバナでやり残した観光をすることに。
ゲバラやカストロのほかに「キューバと言えばこの人!」と言える人がいる。
その人がよく泊まっていたホテルが、オビスポ通りにあるホテル・アンボス・ムンドス。
ここで『誰がために鐘は鳴る』を執筆した。


その人の名は、アーネスト・ヘミングウェイ。
ノーベル文学賞を受賞したアメリカ人の小説家。

釣りが大好きだったヘミングウェイ。
彼が、カリブ海の常夏の島、キューバを気に入るのも必然だったのかもしれない。
1940年にキューバに移り住み、20年間もキューバで過ごした。
常宿だったホテル・アンボス・ムンドスには、カストロ氏と握手を交わしている彼の写真も飾ってある。

彼が決まって泊まっていたのは511号室。
ここで小説を書いては通りに出向き、行きつけのバーで一杯ひっかけていた。
彼がお気に入りだったバーはふたつ。
ひとつはオビスポ通りの入口にあるFloredita(フロリディータ)。
ここでダイキリを注文していた。
そしてもうひとつ。
La Bodeguita del Medio(ラ・ボデギータ・デル・メディオ)。

ここでヘミングウェイが飲んでいたのはモヒート。
昼間っから飲むことも多かったという。

ふたつのバーはいまではツーリストが押し寄せる観光地となっている。
ヘミングウェイが飲んでいたカクテルを注文し、写真を撮る外国人でいつもにぎやか。
もちろんほかの店に比べてカクテルの金額は高い。
1杯6CUC(約6ドル)。

酒好きのケンゾーはキューバに行く前から、ヘミングウェイ行きつけのバーでカクテルを飲むことを楽しみにしていた。
でも、キューバでできるだけローカルな旅をしたきたわたしたち。
観光客用のバーで高いお金を払って飲む気が、すっかりうせてしまっていた。
バーに行かない代わりに、わたしたちはある場所に行くことにした。
ヘミングウェイの足跡を訪ねる旅。
キューバ最終日、ハバナからの小旅行。
歩いて向かったのはハバナ湾の港。
対岸へ、渡し船に乗って。
運賃は1モネダ(約5円)。

運河を渡るこの船は、地元の人たちの足。
ゆっくりと離岸。
旧市街の街並みを海越しに眺めながら。

この運河はカリブ海へと注いでいる。
両岸を結ぶのはこの渡し船だけではない。
海底トンネルがあって、バスに乗ればそのトンネルをくぐることになる。
帰りは海底トンネルを通って帰ることにしよう。

旧市街と運河を隔てた場所がカサ・ブランカ地区。
およそ5分のあっという間の船旅。
船を降りたわたしたちを待っていたのは、かわいい駅舎。
ここから東に向かう列車、ハーシー線。
いまも現役で、今回わたしたちもこの列車に乗ってハバナに戻ってこようかとも思っていたけど、時間がなくてその計画をやめたのだった。
こんなところでお会いできるなんて。
ハーシー線のカサ・ブランカ駅はとても小さい。
ホームもあってないようなもので、列車というより路面電車。

ハーシー線のハーシーは、アメリカの大手チョコレートメーカーHershey's社にちなんだもの。
菓子を製造するときに欠かせないサトウキビを運搬するために敷設された。
鉄道は東のマタンサスまで延びていて、かつてはハバナ郊外の製糖工場やサトウキビのプランテーションなどを結んでいた。
ハーシー社が独自につくったものだが、革命後は国有化されて今では人を運んでいる。

現役とは思えないほど古びている車体。
キューバは車もレトロだけど、列車もレトロ。
外からのぞいていたら、駅員さんに入っていいよと言われた。
これで今も動いているんだからすごい。

こんなレトロな座席見たことない。
そのまま昔の映画に使えそう。
もうちょっと余裕があったら、これでキューバの田園風景を見ながら移動したかったなあ。

ガタンゴトン、ガタンゴトン。
揺れるしシートは硬いし、座り心地は決してよくないと思う。
でも、カミオンよりも何倍も楽で、ワクワクする移動になりそう。

カサ・ブランカ駅の向かいの坂を上って行く。
カバーニャ要塞を横目に見ながら坂を上りきると、そこは展望台になっていた。
ハバナ湾と運河を隔てて、ハバナの市街地が広がっている。

キューバに来る前「キューバだけは特別」「あそこは昔の時代をそのまま閉じ込めたような街並み」って聞いて、想像をふくらませていた。
映画のセットのような街並みなのかなーって。
でも、実際はかなりごみごみしていて雑多で生活臭が漂っていて建物は老朽化で今にも崩れそうで、アジアの下町を彷彿とさせた。
小綺麗ではない。
でも、けっして嫌いではない雰囲気。

宿も観光も旧市街だったので、新市街はほとんど見ていない。
だから、ハバナのイメージは新しい高層ビルなんてほとんどない、古い街。
でもこうやってみると、ハバナにもけっこう大きなビルができている。
こんな建物がこれからどんどん増えていくんだろうな。

このハバナの街を見下ろす静かな高台に、あの人が暮らしていた家がある。
その人は、ここで暮らし、風に吹かれて街並みを見ながら何を思っていたのか。

住人の名はチェ・ゲバラ。
彼はキューバで革命を起こしたとき、28歳と若かった。
革命が成功した後は国立銀行総裁、さらに工業大臣になった。
カストロはゲバラよりも2歳年上。
改めて考えると、30歳そこそこ、もしくは20代の若者たちが武器を持って政府軍と戦い、政府を追い出し、政権を取るというのは衝撃的なできごと。
一党独裁の国家元首となったカストロはいまのわたしよりも若かったし、国のトップに立つ大臣たちも若者。
彼らよりも年上の市民たちは、突然のし上がった若いリーダーたちに文句も言わずによくついていったなあと思う。
ゲバラなんてアルゼンチン生まれの白人。
30歳ぐらいの外国人が突然やってきて、国のリーダーになる。
そんなの普通に考えたらありえないこと。
そんなゲバラもいまはキューバを代表する人物で、キューバ人たちは彼を敬愛している。
カストロの政策が功を奏したことを立証している。
ゲバラの邸宅を通り過ぎ、わたしたちはバスをつかまえた。
これから向かう場所はCojimar(コヒマル)。
ヘミングウェイが好きだった場所。
30分もしないうちにバスを降りた。
ハバナの中心地からそれほど離れていないのに、まったく違う空気が漂っていた。
コヒマル、いいやん!!
ヘミングウェイ、いいやん!!

ここは全然都会じゃない。
静かな「漁村」。
静かでまったりした時間が流れている。
沖縄の離島のような雰囲気。

わたしもケンゾーもヘミングウェイのファンでもなにもない。
わたしは高校のときヘミングウェイの代表作『老人と海』を読もうとしたけど、途中で飽きてしまって最後まで読めなかった。
ケンゾーは『老人と海』を読破したことはしたらしいけど、老人の漁師が主人公ということくらいしか覚えていない。


ヘミングウェイのイメージは、ハバナのオビスポ通りのイメージだった。
外国人観光客が闊歩し、高級ホテルやレストランやバーが軒を連ねる華やかな場所。
そこのホテルに泊まり、バーで酒を飲むヘミングウェイ。
でも、この場所はあのオビスポ通りとは真逆の雰囲気。
ほんとうのヘミングウェイは、こっちのイメージに近いのかもしれない。

このコヒマルは『老人と海』の舞台になったところ。
釣りが好きだったヘミングウェイの愛艇もこの港につながれていたという。
ローカル感漂うこの静かな漁村に、ヘミングウェイの胸像がある。
もちろんヘミングウェイは海を見ている。
コヒマルの住民たちが建てたもの。

観光客であふれるオビスポ通りのバーには行かなかったわたしたち。
その代わり、この小さな漁村のコヒマルでお酒を飲むことにした。
ひなびた漁村のなかに、コロニアルな建物が海に面して建っている。
La Terraza(ラ・テラサ)。

ヘミングウェイはコヒマルに来ると、この店に立ち寄っていた。
ここで、地元の釣り仲間たちと話をするのが楽しみだったという。

『老人と海』の主人公のモチーフになったと言われているのが、ヘミングウェイの船の船長を務めていたグレゴリオさん。
長生きした彼は2002年に104歳で逝去するまで、毎日ここに通っていた。

壁にはグレゴリオさんの肖像画のほかに、いくつかの写真が飾られている。
ここから船でカジキマグロ釣りに興じていたヘミングウェイの写真。
「ヘミングウェイカップ」という釣り大会で、カストロが優勝したときのツーショット写真。

キューバ革命でアメリカの傀儡政権が追い出され、多くの親米家がアメリカに亡命した。
アメリカ人のヘミングウェイも革命中はアメリカに逃げていたものの、すぐに愛するキューバに戻ってきた。
キューバ国民たちも彼が戻ってきたことを喜んだという。
しかし、そのためにヘミングウェイはアメリカ政府に監視され、精神的に追い込まれていたらしい。

部屋の角の、海が見えるテーブル席。
ヘミングウェイの特等席だった。
今でも特等席のまま。
実はハバナのオビスポ通りのヘミングウェイの行きつけだったバー、フロリディータにもヘミングウェイの特等席だったところがある。
カウンターのいちばん奥。
少し古いガイドブックの写真を見ると、ここみたいにロープで区切られ、誰も座れないようになっていた。
主はいまはいないけど、いつでも帰ってこられるように取ってある。
もしかしたら、誰にも気づかれないように今もこっそりそこで飲んでいるかもしれない。
そんな想像力が引き立てられる。
でも、いまフロリディータにはヘミングウェイの等身大の像が設置されている。
記念写真ポイントになっている。
趣がなくなってしまった。
ここみたいに、そのままのほうが雰囲気があるのに。
ヘミングウェイの特等席の窓からは、いまも海の男たちの姿が見える。


この漁村は、ハバナの中心地から近いと信じがたいほど、静か。
ここだけの時間が流れている。
もしキューバの旅で時間がない人は、ここを訪れてほしい。
華やかなハバナでは見られない、キューバの原風景が見られる場所。
時間がない人は、ハバナと高級リゾートが建ち並ぶバラデロに滞在するけれど、バラデロよりもここで過ごしたほうがキューバの雰囲気を肌で感じることができるんじゃないかな。
コヒマルに宿泊施設があるかわからないけど、もしここに泊まれればここからハバナの中心地に日帰りで行くことも簡単。
ここに泊まってハバナ観光もいいと思う。

ヘミングウェイが飲んでいたダイキリを注文。
1杯3CUC。
ハバナのバーの半分の値段。
帰国したら、ヘミングウェイの作品にもういちど挑戦しようかな。

飛行機の時間が迫っている。
そろそろハバナに戻らないと。
バス停まで歩いていると、使い込んだ愛車の塗装をしている男性がいた。
もう50年以上も使っているんだそう。
日本ではとっくに廃車となっているような車。
でも、この車にはたくさんの思い出が詰まっている。
男性の家族の歴史を見届けてきた車。
色を塗り替えられた車は、これからも家族の歴史を見守っていくだろう。

宿に置いていたバックパックを取り、わたしたちはハバナの旧市街からふたたび満員のバスに乗って空港へと向かった。
建物にチェ・ゲバラが大きく描かれた革命広場が車窓から見えた。
ゲバラと同じ時代を生きたフィデル・カストロ氏はいま89歳。
高齢で体調がすぐれないと噂されている。
そのうちカストロ氏の肖像も、ゲバラの隣に並ぶのかもしれない。
国家元首の座を譲り受けた弟のラウル・カストロ氏もすでに84歳。
彼らのあと、キューバのリーダーをどんな人が引き継ぐのだろうか。
飛び立った飛行機から、夕焼けが見えた。

キューバもひとつの終焉を迎えようとしている。
そして、新生キューバの夜明けはすぐそこまで来ているのかもしれない。
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