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訪れた国は78カ国
旅した期間は1257日
2016年2月14日に帰国!
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ケンゾー   イクエ


2007年10月 結婚
2012年09月 世界旅行に出発

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「ペンション園田」か「民宿小林」か

2015.05.27 05:36|パラグアイ☞EDIT
きのうの冒頭一言で「ケンゾーはかっこいいわけではない」というようなことを書いたら、ケンゾーから「そういうのは日本人的だ。自分の夫を卑下する。」と指摘されたイクエです。
でも、ふたりだけのときはかわいがってあげているからいいんですよ。

きのうは移住資料館でのお話をご紹介。
50年前に日本を離れてまったく知らない国で、一から始めた新生活は想像を絶する過酷なもの。
そんなご苦労を乗り越えられて、移住者の方たちが今のこの豊かなイグアスの移住地をつくりあげてこられた。

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そんなイグアス移住地に行くと知った坂田さんから、わたしたちは事前に指令のメールを受け取っていた。

坂田さんはアフリカのマラウィにシニア海外協力隊でテレビ局に派遣され活躍中の、元テレビ局勤務の大先輩。
アフリカ滞在中にホームステイさせてもらい、マラウィの国営テレビ局を案内していただいた。

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メールのタイトルは「島崎さんという坊さんを探せ」

メールの内容は短く、とにかく「イグアス移住地に島崎さんという知り合いがいて、そこへ行け」というものだった。

島崎さんはもともと札幌で喫茶店を経営していた人で、最近になってパラグアイに移住されたらしい。

泊まっているペンション園田のご主人に尋ねる。
「島崎さんというお坊さん知ってますか?」

「島崎さんならあの家に住んでるよ。
とにかく移住地の女性陣にモテモテだからね。
女性陣って言ってもばあちゃんだけどね。
きょうも車がないからおばあちゃんたちに囲まれて遊んでいるかもしれない。
車がとめてあるときは家にいる証拠だから行ってみるといいよ。」


ばあちゃんにモテモテで遊んでる坊さんってどういう坊さん?
しかもなんで前職が札幌の喫茶店経営だったのか。
どうしてそれをやめてわざわざパラグアイに移り住もうと決めたのか。

坂田さんの知り合いだから、ちょっと変わった坊さんだとは思うけど。

車があるときを見計らって、わたしたちは何のアポもなしに島崎さんの家を訪ねた。

「麻雀に行かなきゃなあと思ってたとこ。
 あんまり行く気がしなかったからちょうどよかった。」

こころよく招き入れてくれた。

麻雀好きの坊さんってどういう坊さんだよ。

こういう坊さんです。

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突然の訪問にもかかわらず、島崎さんはわたしたちにコーヒーをいれてくれてお話をしてくださった。
昼から酒じゃないところが、まじめな坊さん。
ちょっとお酒を期待していたわたしたちは、仏の道にはほど遠い下衆。

報道記者をしていたわたしは、島崎さんの脂ののった顔やしゃべり方から思った。
「この人、坊さんっていうよりも政治家っぽいな。」

顔も広くみんなから頼られ、札幌では地元議員にも負けないくらい、経済界や政界の人たちとの付き合いがあったと思う。(わたしの勝手な想像。でも当たってると思う。)

要領がよく、女性からもモテ、女性ともうまく遊んでいたと思う。(わたしの勝手な想像。でも当たってると思う。)

なぜそんな人が、突然仏の道を志したのか。

それは3・11の震災がきっかけだった。(ここからはわたしの勝手な想像ではなく実話。)

あの日、島崎さんは東北をドライブ旅行していた。
地震が発生したそのとき、まさに津波エリアにいて間一髪で難を逃れた。

それからこれまでの仕事を辞め、僧になることを決めたのだと言う。

島崎さんは若いころ、仏教を学ぶ大学に通っていた。
けれど仏教とはまったく関係のない俗世間で生きてきたので、お寺で修行をし直した。
修行は朝早起きして掃き掃除をしたり、座禅を組んだりと一休さんみたいなことをしていたらしい。
そして晴れて遅咲きの僧となった。

僧になる前、島崎さんは札幌で移住者交流のお手伝いをやっていたそう。
海外に住む移住者が日本に一時帰国するときに迎えたり、日系の子孫が日本に留学したり研修したりするときのあっ旋をしたり・・・。

そのことが縁でパラグアイの移住地で坊さんになることを決めたと言う。
それまでイグアス移住地にはお寺もなければお坊さんもいなかった。
不幸があったときや法事のときは、お経を読めるふつうの高齢者が交代で読経をしあっていたのだそう。

狭い移住地では、日本以上にさまざまな宗教・宗派に分かれている。
こちらでキリスト教に改宗した人も多い。
布教活動も活発で、天理教やエホバの証人などの信者もいる。
家族で信じる宗教がばらばらなのも珍しくない。

島崎さんはどんな人も受け入れたいとおっしゃっていた。
島崎さんのところには親族が亡くなり「宗教・宗派が違うと言ってどこからも弔ってもらえなくて」と最後に泣きついてやってくる人も多いと言う。

いま、イグアス移住地横の国道沿いにお寺を建設中。
まもなく完成する。

「じいちゃん、ばあちゃんたちの交流の場になればいいなと思ってる。
 みんなが集まって、お茶を飲んでおしゃべりする。
 自由にお寺を使ってもらいたい。」

結婚式の予定も2件入っているのだそう。
仏前式。
今どき日本でも珍しい。
つくづく、ここは日本よりも日本らしいんじゃないかと思う。

ここでは島崎さんのようなお坊さんが、長い間待ち望まれていた。

人生の終盤に差し掛かり、日本を捨て、パラグアイでの永住を決めた島崎さん。

「日本が恋しくならないですか?」
「そんなのはないね。
ここは気候もいいし、しょっちゅうばあさんたちが『差し入れ』っていっておいしいもの作って持ってきてくれるしね。」


島崎さん、これからもイグアス移住地でご活躍くださいね!

アフリカでお世話になった坂田さんからの指令を果たしたわたしたち。
夕方、ペンション園田に泊まっているほかの宿泊者の人たちと向かったのは農協の2階。

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ここは地元の人たちが集う飲み屋さん。
健全な飲み屋さんで、お客さんたちは働いた後一杯ひっかけて帰る、という感じなので、けっこう早めに閉まる。

もちろん日系人のお客さんが多いんだけど、パラグアイ人も。
移住地にいると日本人だらけに思えるけれど、イグアス市全体では日系人は全体の人口の1割にも満たないのだそう。

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ビールを頼むと、サービスのおつまみが。
やっぱりここは、日本だあ~♡

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飲みに来られていた日系人の男性お2人に同席していただいて、お話をうかがった。
お二人とも若いころに日本から渡って来られた1世の方。

「日本酒が飲みたくなりますか?」
「めったに飲まないし、あんまり飲みたいとは思わない。
 日本酒よりもウイスキーかなあ。」


たしかに多くの方は、移住してきたときはまだ未成年だった。
まだ日本酒や焼酎の味を覚えていないとき。
パラグアイでは日本酒や焼酎は手に入りにくく、あっても高いので大人になってもそのまま飲まずにきている。

そっかあ。
わたしとケンゾーは日本酒や焼酎に慣れてしまったから、恋しくなるんだなあ。

やはりお二人ともかなりご苦労されたようだけど、今では広い農地を所有し成功されている。
お一人のかたは、600ヘクタールもの土地をもっているのだそう。
600ヘクタールってどのくらいかと言えば、長さ1キロ奥行き6キロの土地。
日本で言えば大地主。

イグアスに住む移住者の平均は300ヘクタールで、これでもすごい。

その話を聞き「そんなにパラグアイで農業ってうまくいくのかあ」「自分たちもパラグアイで農業をやったらいいのかなあ」と単純に考えたわたしたち。
でも、もしわたしたちがここで農業をやるとしたら、まずそれだけの土地を買わないといけない。

で、土地代を聞いて驚き過ぎてあんぐり口を開けてしまった。
宝くじが何回当たっても買えない金額。
昔はジャングル同然だったここも、今では開拓されているし、土地代は急上昇してるんだって。
わたしとケンゾーなんて、パラグアイに移住しても一生小作人のままだ。

いっしょに飲んだ男性お二人がおっしゃるには、育てるのを大豆に切り替えてから収入が増えたのだそう。

あまり知られていないけど、パラグアイの大豆生産量は世界6位、輸出量にいたっては世界4位を誇る。
日本はお味噌や醤油、豆腐など大豆大好きな国なのに、95パーセントが輸入に頼っている。
パラグアイの年間生産量は1000万トンでこれは、日本の消費量の2年半分に相当するんだって。

日本の大豆の輸入先はアメリカが圧倒的で群を抜いて多い。
こんなに日系人ががんばってたくさん大豆を作ってるんだから、日本もパラグアイからたくさん大豆を輸入したらいいのに、そうは簡単にいかないのかなあ。

大豆がたくさん栽培されているイグアス移住地。
ここではこんなものも手に入る。

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納豆!!
3300グアラニーだから、日本円で86円くらい。
農協でも売ってるし、ペンション園田の近くの商店でも売っていた。
海外で日本食は見るけど、納豆って外国人に受け入れられないから見かけない。
久しぶりの納豆に大興奮。
ちゃんとネバネバしてますよ。

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ビールのおつまみ、枝豆はあたり前。

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そしてなんと,ペンション園田には豆腐屋が車で豆腐を売りにやってくる!
小学生のときには豆腐屋さんいたけど、最近はめったに見ない。
あ、いま思い出したけど学生のころ新宿の下町に住んでいてそこにはラッパを吹く豆腐屋がいた。
いま東京にどのくらいの豆腐屋がいるんだろう。

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東日本大震災のとき、パラグアイの移住者たちが生産した大豆で作った豆腐が被災地へと送られた。
その数、100万丁!
この話を園田さんから聞いたとき、ケンゾーは「あっ!」と叫んだ。
1年間被災地でボランティアをしていたケンゾーは、この豆腐を岩手の陸前高田市で食べたことを思い出したのだ。
1人で感動していたケンゾー。

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豊富な日本食材のおかげで、ペンション園田滞在中は毎日和食を作った。
焼きそばソースを買って焼きそばを作ったり。
日本のカレーのルーでカレーを作ったり。

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ペンション園田の炊飯器を使って、日本米を炊いて。
酢ゴボウを作って。

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ゴボウだけじゃない。
農協には里芋やこんにゃくも売っている。

何でもできる。

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農協でこんなのも売ってたの。
ミョウガのシソ漬け!!
こんな渋いのを売ってるなんて信じられん。
嬉しすぎる。

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おとといお伝えしたように、近所には手頃な日本食堂もたくさんある。
和食ばっかり食べ続け、NHKを見てまったりと過ごし、外を歩いて「こんにちは」と声をかけられる。
もうここは日本。
2泊ぐらいする予定が、けっきょくは1週間も滞在してしまった。
本音を言えば1か月くらいいてもいいと思った。
2年半旅を続けて一度も日本に帰ってないんだから、日本同然のここでゆっくりしてもいいじゃないと思った。

居心地がいいペンション園田

でもイグアスにはペンション園田のほかに民宿小林という宿がある。
ほかにも「福岡旅館」なんていうのもあるんだけど、旅人は園田小林に分かれている。
というか、いまはネットの評判や口コミから小林を利用する人が多いと思う。

わたしたちも最初はどっちにするか迷ったけど、園田のほうが移住地の中にあるし宿泊費も安いので園田に泊まることにした。
わたしたちがいたときは園田の客は少なくて、ドミトリーの各部屋にそれぞれ1人ずつしか泊まっていないことが多かった。
そのいっぽう、同じ時期に小林にはたくさん日本人の旅人がいたみたい。
そのうちお客さんは小林に流れていっちゃうのかなあ。

なぜそんなに民宿小林が人気なのか。

・古びた「ペンション園田」よりも、建物が新しくてきれいで清潔
・オーナーの小林ご夫婦がホスピタリティーあふれる人で旅人を癒やしてくれる
・小林さんが車で農場とか釣りとかに連れて行ってくれる
・宿の有料の夕食をみんなで楽しく食べる、小林さんが作る和食が絶品
・星を見ながら屋上のジャグジーに浸かれる
             ・・・など

小林に泊まった旅人は「もうあそこは最高だった~」って口をそろえて言う。

日本人旅人たちと小林さんが作ってくれたすき焼きを囲んでワイワイやるのは、合宿みたいでとっても楽しそう。
さらに、みんなで小林さんの農場に行ったり散歩をしたり釣りをしたり。
これはもう日本の田舎のおじいちゃんおばあちゃんちで過ごす夏休みみたい。

だけど小林は移住地の集落から10キロ以上も離れたところにある。
何もないところにポツンと建っている。
わたしはそれがひっかかった。
移住地の雰囲気に身を浸せない。

でも旅人にとっては逆にそれがいいのかもしれない。
優しい小林さんご夫妻と旅人だけの、誰にもじゃまされない特別な空間。

イグアス移住地を発った数日後、旅友と再会した。
その旅友は同じ時期に民宿小林に泊まっていた。

そのときの話をしながら、彼がわたしとケンゾーに聞いた。

「で、あそこに住む日本人の人たちってなんで移住してきたんですかね?」

それを聞いて、わたしはこころから思った。

「移住地の中心にある『園田』に泊まって良かったあ。」

移住の歴史や移住者の苦悩や、みんなが努力しながら作ったあの街の雰囲気を知ることが、イグアスを訪れた目的だったから。

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宿の外に出ると麦わら帽子をかぶったおばあちゃんやおじいちゃんが散歩をしている。
「おはようございます」と日本語で挨拶する。

散歩をして道が分からないと向こうから歩いている人に当たり前のように日本語で「ここに行きたいんですけど」と聞いて「だったらあっちだよ」と案内してもらう。

きょうはゴーヤーが手に入ったから何作ろうかなあと日本にいるときのように献立を悩む。

きょうはあの食堂で食べようと行ってみると「いらっしゃい、何にしますか?」と言われて日本語で書かれたお品書きを見て注文し、おいしい和食をいただき「ごちそうさまでした」と店を出る。

閉店間際にお店を訪れると「いまなら巻寿司半額にしますよ!」と勧められて、ついついパックのお寿司を買ってしまう。

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銀行に行くとスーツに身を包んだ若い日系人がもくもくと仕事をしていて、丁寧な日本語で窓口対応をしてくれる。

おじいちゃんおばあちゃんが朝からゲートボールを楽しんでいる。

こっちで生まれた3世の子どもたちが普通に日本語ではしゃいでいる。(子どもたちは現地の普通の学校と、日本語の学校ふたつに通っている。)

ここは、日本そのものだった。
いろんな文化が入って、流行り廃りがあって、隣の人の顔さえ分からない今の日本よりも、日本文化やコミュニティを大事にする日本らしい日本だった。

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こっちで生まれ育った20代の2世の人たちで、日本に旅行や研修に行った人たちがいる。

「日本に行くのってどんな感じなんですか?」
わたしは聞いてみた。

「たとえば鹿児島の人が東京に行くのと同じ感覚ですよ。
 言葉や文化は同じだけど街の雰囲気は地元よりも都会。
 日本の今の様子は毎日NHKで見て知ってるから別に行って驚くこともない。」


こんなにも「日本」に親しみをもつ人たちが「日本」を大事に暮らしている「日本」。
そんな「日本」がパラグアイにあることを知らなかった日本人のわたしは自分をちょっと恥じた。
この空間に身を浸すことができてよかった。

旅には人それぞれスタイルがあって旅に求めるものも違う。
だからこそ、その人独自の旅ができておもしろい。
わたしたちは今回移住地の中にあるペンション園田に泊まって移住地の様子や暮らしを知れて満足したけれど、移住地の中心から10キロ離れた静かで自然がいっぱいの民宿小林に泊まって日本人の旅人みんなで鍋をつつくのも楽しいと思う。
自分にあった宿をチョイスするといい。

民宿小林のご主人は10キロ離れた農協まで車で送ってくれるようなので、きっと頼めば移住資料館やほかの移住者のお宅へも案内してくれる。
尋ねると移住の苦労話もしてくれるはず。
車がなくてもバスでも行けるのでせっかくイグアスに来たのなら、移住地を歩いて雰囲気を肌で感じて移住の歴史に触れてみてもいいと思う。

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この日わたしたちは「ペンション園田」から歩いてすぐの、ある建物へと向かった。
ここはデイセンターのようなところで、移住地のお年寄りたちが週一回集まって、歌ったり体操をしたりゲームをしたりしている。

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突然おじゃましたのでちょっと緊張したけれど、みなさん笑顔で「いらっしゃ〜い」と迎え入れてくれた。

高齢者だけどみなさん元気!
背筋もピンとしていて肌ツヤも良くて年齢を聞いてびっくりするほど。
畑仕事で体を鍛えて、地元で採れる体にいいものを食べているのが若さの秘訣かな。

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この日はイグアス移住地のすばらしさを歌詞にした音頭をみんなで熱唱。
そしてタオルを使って肩をたたいたり伸びをしたり、音楽に合わせたストレッチ体操。
頭を使う手遊び運動。

みなさんの前に立ってリードしているのは、若い日本人の女性で、JICAから派遣されているボランティア。
きのうの記事でJICAの前身は「海外移住事業団」で、移住の振興や移住者の支援をしていたって書いたけど、この要素が完全に途絶えたわけではない。
いまもJICAは移住者や日系人の支援事業をやっている。
そのひとつに「日系社会ボランティア」がある。
青年海外協力隊のように、海外に派遣されてボランティアを行なう。
ただし活動場所は日系人のいる中南米で、日系人社会を支援するのが活動の目的。

ボランティアの女性は次から次に楽しいプログラムを用意していた。
お次は切り絵。

みなさんとても楽しそう。
四季の花々や鳥居などがモチーフ。

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室内には、みんなの作品が飾られている。
千代紙で作った小物入れ、日本らしい置物。

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そんななか、みなさんがこの日いちばん盛り上がったのは「脳トレ」系のクイズ集。
計算をしたり、縦横で同じマークが重複しないようにマスを埋めたり。

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難しかったのが市町村名でしりとりしながら進むもの。 
県庁所在地や観光地の地名、地元の市町村ならわかるけど、ふつうの市町村名なんて日本に住んでるわたしだって覚えていない。

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それなのにパラグアイに住むおばあちゃんたちが、わたしよりも早いスピードで進んでいく。
毎日NHKを見てるから日本の市町村名もバッチリなのかな。

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このあとはおいしそうな昼食がふるまわれた。
「いっしょにどうですか」と言われたけれど、突然おじゃまして悪いのでご遠慮。

事前にお願いしておけばいっしょにご飯も食べられるみたい。
何もできないわたしたちでさえ歓迎してくれたので、ぜひ機会があれば遊びにいってみるといい。
マッサージが上手な人や理学・作業療法士の旅人なんかは、おばあちゃんたちをマッサージしてあげるととても喜んでくれるんじゃないかな。
園田さんや移住地の人に「訪問したい」って事前にお願いしておくと、ボランティアの人に伝えてくれると思う。
週に一度しか活動してないようなので、曜日の確認が必要。

異性にモテる人、年下に慕われる人、人にはいろんなタイプがあるけれどわたしは確実に同性の年上からかわいがられるタイプ。
それをここでも遺憾なく発揮してしまったよう。

帰り際、おばあちゃんたちからプレゼント攻撃。

「これはね、古い着物の布で作った帽子の壁掛けよ。」
「わたしが作ったつまようじ入れ。」
「キーホルダーとしおりね!」

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ここで作った手作りのものはわかるとして、なぜ昼食用に持参してきたスプーンや箸まで!?
でも「なんでも持っていっちゃいなさい」みたいな大きな優しさが、おばあちゃんっぽくて好きです。

「イシイ」さん、名前入りのタオルありがとうございました!

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日本の裏側にある「日本」、イグアス移住地。
まだ行ってない日本食堂もあるし、子どもたちが学ぶ学校の様子も見てみたかった。
もっとながーく、ここにいたかった。
1週間滞在したペンション園田を、後ろ髪引かれる思いで出発する。

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わたし、やっぱり日本が好きなんだなあ。
日本っていいわあ。
日本の裏側で、それを再確認したのでした。
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知らなかった異国の「日本」を知れた日

2015.05.26 08:00|パラグアイ☞EDIT
夫の顔のパーツをひとつひとつ見ると変だけど、唯一褒めてもいいところはまつ毛が濃くて長いことかなと思う、妻のイクエです。
でもそれも「さかまつげ」だけどね。
たま~にケンゾーが「かっこいいですよ」と人から言われて調子にのってるので「いや、そうじゃないやろ」と横から指摘しています。

パラグアイにあった日本、イグアス移住地。
ここは、わたしが思っていたよりも「日本」だった。

なぜこんな日本の裏側に、50年前に日本人たちがやって来たのか。
そしてどんなふうにして、ここの「日本」ができあがっていったのか。

それを教えてくれる資料館がある。

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この資料館は週に一日しか開館していない。
だけど、ここの鍵を「ペンション園田」のご主人が管理しているので園田さんにお願いして案内してもらうことにした。
入場は無料。
それぞれが別々に案内してもらうのも時間を取らせて悪いので、いっぺんに済むようにそのとき宿泊していた4人全員で向かった。

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園田さんは、元JICA職員。

JICAと言えば、ODAなど途上国支援をしている外務省所轄の独立行政法人。
イクエとケンゾーもアフリカでは何人もの海外協力隊員にホームステイさせてもらったり活動を見せてもらったりとお世話になってきた。

だけど、なぜ50年も前にパラグアイに移住してきた園田さんがそんなJICAの職員だったのか。
ちょっと不思議な感じがするかもしれない。

今でこそ途上国支援をしているJICAだけど、実は前身は海外移住事業団
国策として日本国民を海外に移住させようとしていた当時、移住の振興や相談、あっ旋、移住後の指導や援助などを行なうために作られた団体。

国の移住政策が下火になって、海外移住事業団のニーズがなくなったのか今のJICAへと移行していった。

パラグアイに移り住んだ園田さんは1972年に海外移住事業団の職員となったものの、その2年後にJICAに切り替わったのだそう。

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そんな園田さんだから、移住の歴史についてわかりやすく丁寧に説明してくださった。
資料館はそれほど大きくないけれど2時間半近く、お話を聞かせていただいた。

去年1年間でおよそ1500人もの旅行者に説明をしたのだそう。

移住の歴史を見ると、パラグアイよりも先にブラジルへの移住が進められた。
それが1908年。
パラグアイへの移住が始ったのが1936年。

1959年にはパラグアイ政府との間で移住協定が結ばれ、8万5000人の日本人の受け入れが決まった。
(ちなみにこの協定はまだ有効で、現在も日本人がパラグアイに移住することは他の国に比べてとても簡単らしい。首都のアスンシオンで泊まった日本人宿のオーナー夫妻は、この協定があるからパラグアイに住むことを決めたと言っていた。)

南米への移住が盛んになったのは戦後だけど、なぜそもそも移住政策が進められていったのか。
そして、なぜわざわざ故郷を離れ、見たこともない日本の裏側に移住しようと当時の人々は思ったのか。

園田さんが教えてくれた主な理由。

・第二次大戦で負けた日本社会。
 当時、疲弊していて生活が苦しかった。

・戦後引揚者が日本に戻ってきた。
 余裕のない社会だったけど彼らを受け入れ、ますます社会は厳しくなった。

・終戦間際に国力を高める目的で「子どもを増やそう計画」が行なわれていて当時の日本は人口増。

・多くの移住者のふるさとは厳しい自然環境だった。
 山間の小さな畑で細々と農業をやっていて、生きていくのが精一杯。
 将来の生活も約束されていなかった。
 新天地に望みをかけた。


現在、イグアス移住地には日系の200家族が住んでいて、そのうち70家族を高知、岩手、北海道出身者が占めるのだそう。

厳しい自然環境のなか痩せた土地や狭い畑でなんとか農業をやっていた人たち。
炭を作って売って生活していた人たち。

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園田さんがおっしゃった。

「それとね、九州も多いね。
 福岡、長崎・・・。
 どうしてかわかる?」

「わたしたち福岡出身です。
 どうしてでしょう?」


「福岡、長崎、それに加えて北海道。
 共通するものは?」

「うーん。」

「じゃあ、もっと言うと夕張、そして・・・。」
「あっ、わかりました!!
 炭坑があった場所ですね。
 福岡にも炭坑がたくさんありました。」


「その通り。
 かつて炭坑で豊かだった地区も、炭坑が閉鎖されて衰えていった。
 だから、人々は安定を求めて海外への移住を決めた。」


園田さんの話を聞いて、なんで50年も前にわざわざこんな遠い異国の、それも田舎にやってきたんだろうというわたしたちの疑問が解消されていった。

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資料館に展示してあったパスポート。
12歳の園田さんが母親と写っている。
鹿児島で生まれ育った園田さん。
1962年、両親と7人の兄弟の家族9人で、日本からパラグアイに移住した。

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「3月8日に鹿児島を出発して、神戸に向かった。
 神戸に移民センターがあってね。
 そこで14日間待機。
 神戸を出発したのは4月2日だった。
 アルゼンチンのブエノスアイレスに着いて、そこからパラグアイまでは列車で移動。
 5月28日にやっと到着したから、鹿児島を出て80日間もかかったことになる。」

園田さんのときは船代も列車代も政府が立て替えてくれたものの、移住してからその借金を返済しないといけなかったらしい。

船内はとても狭く環境はとても悪かったようだ。
とくに環境の悪い船底になぜか沖縄県人が詰め込まれたらしい。

「これは沖縄の人が差別されてたからだと思うね。
 当時はまだアメリカ領だったでしょ。」

つらい船の長旅。

当時の人たちはどんな思いで船に乗っていたのか。
でも、不安よりも期待が大きかったと思う。
日本で将来を見いだせないから、外国の大地で未来を切り拓こうとした人たち。

ここイグアス移住地は、パラグアイの第2の都市シウダー・デル・エステからほど近い。

「『パラグアイの大きな都市からわずか数十キロのところに住めます』って言われて来たんだよ。
当時外国のテレビもほとんど放送されないし、もちろんネットもない。
外国の都市で唯一イメージできるのはニューヨーク。
だから外国の都市って言われてニューヨークみたいな大都市を想像した。
ビルが建ち並んで。
でも、着いてみたらぜんぜん違う。
30年間電気がない地区もあったんだよ。」


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夢を抱いて、故郷や友人を捨て、2か月半以上かけてたどり着いた永住地。
そこは、ただのジャングルだった。

着いてその場所を見るなり「あ〜、失敗したー!やられたー!」と思った人も多かったらしい。

『肥料を使わなくてもすくすく野菜が育ちます』
『果物がたくさん実っていて食べ物に困りません』

そう言われて、夢のような大地を想像していた人たち。
目の前の景色はまったく違うものだった。

土地は日本政府から買うシステムだったのだそう。
頭金を払って借金をしているので、なんとかして畑を作り収入を得ないといけない。
道路の整備費や診療所建設のための投資金も徴収された。

ジャングルの木を倒し、火をつけて畑を作っていった。
信じられないことにヒョウなどの猛獣もたくさんいたという。

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イグアスの滝の周辺は今もジャングルが残っていて、当時のイグアス移住地もそことそっくりな状況だったそう。
後日イグアスの滝に行ったときに撮影したジャングルがこれ。

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木々が生い茂りうっそうとしている。
ここを人力で切り開いて畑を作るなんて想像できない。

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それが今では地平線まで続く畑が広がっている。

一家族が所有する畑は、当初は多くても30ヘクタールだった。
パラグアイでの厳しい暮らしのため帰国した人や隣国に移動した人もいた。
そういう人たちから、とどまり続けた移住者たちは用地を譲り受けたりした。
いまイグアス移住地の一家族の栽培面積は300ヘクタールにも及ぶのだそう。

努力で手に入れた大地と生活。

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移住者たちはメロンやキャベツ、トマトなどの栽培に取り組んでいった。
パラグアイの土地にあっていて育てやすく、それが今ではパラグアイ人の小農家に広まっている。
パラグアイに貢献していると園田さんはおっしゃっていた。

資料館には古い農機具も展示されている。

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資料館にはほかにも懐かしの品物が。
日本には二度と帰らない覚悟で、見知らぬ国へと向かった人々。
日本を発つとき、人々は何を持っていったか。

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お釜やちゃぶ台、食器。

異国でも日本と同じ生活がしたい。
当時の人々の思いが伝わってくる。

あれもこれもといういわけにはいかない。
限られたものしかもっていけなかった。
そんな状況のなか、こんなものを持ってきた人も。

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五右衛門風呂!
こんな鉄の重いものを。

でも、日本人にとってお風呂は欠かせないからその気持ちわかる!

日本を離れて2年半以上が経つわたし。
和食が恋しくなってホームシックになることがある。

園田さんに尋ねた。
「日本を離れてこっちに来たとき、手に入る食材も違うじゃないですか。
和食が食べたい、あれが食べたいって苦しくなることはありませんでした?」

「そんなのはなかったね。
和食が恋しいとかいう以前に、なんでもいいからお腹いっぱいになりたいっていうのが先だったもの。」


言われてみたら納得する。
毎日食べていくのも苦しいなかで、異国への移住を決断したのだ。
そして移住してからもしばらくは空腹との闘いが続いていた。

わたしは今、日本を離れて長い間旅をしているけれど、いずれ日本に帰ることができる。
50年も前に何の情報もない異国へ移住するのとはわけが違う。

慣れ親しんだ故郷を捨てるということ。
親戚や仲のいい友人たちとも二度と会えない。
異国で何が待ち受けているのか、どんな文化なのか、どんな人たちが住んでいるのかもわからない。

移住者の人たちの覚悟はすごいものだったと思う。

でも、家族といっしょだからできたのかもしれない。

しかし、こういう人たちもいた。

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花嫁移住者

パラグアイに移住した若い男たちのために、年頃の女性たちが単独で海を渡った。
家族と別れ、故郷を捨て、二度と日本に戻らない覚悟で。

どんな男の人と結婚することになるのかもわからない。
孤独だ。

わたしには到底まねできない。

でもそんな若い女性たちが異国の地で、初めて会う移住者たちと結ばれ、共に苦労をわかち、子どもを育て、そしていま孫に囲まれて幸せに暮らしている。

資料館の奥にはこっちでつくられた太鼓や神輿も飾ってあった。
毎年、夏祭りを開いているのだそう。
夏と言ってもこっちでは12月だけど、それでも日本文化を大切にしながら暮らしている。

夜、ペンション園田で焼き肉パーティーが開かれた。
お肉や園田家手作りのおかずをいただく。

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焼き肉は日本と違って薄切り肉じゃなく、骨付き肉の塊。
それを豪快に焼いていく。
これがパラグアイ式。

骨つきのまま、いただきます!

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お肉はパラグアイ風だけど、サイドメニューはまさに日本!
のり巻きおにぎりはもちろん、キュウリの浅漬けも。

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大人たちが食べている脇で、園田家のお孫さんがはしゃいでいる。
元気に笑っていたと思えば、転んで泣いたり。

「ほら〜、そっちに行かないよ!ダメでしょ!!」
「ちゃんと食べなさい。」
「お肉食べる?
 こっちにおいで、おしいよ。」

大人たちがあたりまえのように日本語で𠮟ったり、なだめたりしている。

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この日は園田のご主人のお兄さんがお友だちと遊びにやってきていた。
お兄さんは最初は園田さんとパラグアイに来たけれど、その後日本に戻って勉強し直し、今度はブラジルに移住したのだそう。
健康食品などを輸出販売する会社を経営されている。
ブラジル日系人の経済界の重鎮なんだとか。
ブラジルや日本の大物政治家と会談することもあるらしい。

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園田さん兄弟の会話が印象的だった。

「なんでおやじは、こんなところに家族みんな連れて渡ってきたのかなあって最初は思ったよ。
憎むとまでは言わないけどね。
こんな何もないところで、なんでみんなで苦労しなきゃいけなかったのか。
俺は日本のほうが良かった。」

そうおっしゃるお兄さんに、園田さんはこう言われた。

「でも、ここに出てきたから今の兄貴があるんだよ。
ブラジルで成功してる。
日本の元首相とも飯を食う仲じゃないか。
俺たちあのまま鹿児島にいたら、せいぜい小さな農家のままだった。
いまごろ、どうなっていたかわからないよ。」

「それもそうだな。
あはははは。」


食事のあと、息子さんがわたしたちをドライブに連れて行ってくれた。

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頭上の満月が、移住者たちが開墾した土地を優しく照らす。

星々が、この土地を祝福しているように輝いている。

小さなフクロウと何度も遭遇する。

日中温められた池の水が、夜の冷気のなか幻想的に湯気を立てている。

「ここで魚も釣れるんです。
 それをすり身にして薩摩揚げを作ったり。」

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こんな場所がパラグアイにあるなんて知らなかった。
日本人の努力と生活の知恵がいっぱいの、なんて豊かな場所なんだろう。
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