
イクエ | ケンゾー | |
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1980年5月13日 | 誕生日 | 1974年9月22日 |
熊本県 | 出身 | 福岡県 |
韓国 アメリカ(ハワイ・本土) 中国 フィリピン ベトナム シンガポール ロシア(サハリン)インド マレーシア メキシコ クロアチア セルビア ボスニア マケドニア オーストリア バングラデシュ 香港 カンボジア チベット タイ ケニア タンザニア(ザンジバル)台湾 ネパール パプアニューギニア オーストラリア(タスマニア)フィジー ツバル | 世界旅行以前の訪問国 ※緑はふたりで旅行 | 韓国 香港 タイ カナダ アメリカ(グアム・本土) ケニア タンザニア(ザンジバル)台湾 ネパール パプアニューギニア オーストラリア(タスマニア)フィジー ツバル |
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二人姉妹の次女、いとこのなかでも末っ子で「わがままを言っても許される」術を身につけ、自由奔放に育つ。 諸事情で1000人規模の小学校から全校児童20人ちょっとの、ど田舎小学校(現在は廃校)に転校。2年間過ごす。このとき、お腹がすいたら木に登って柿を食べたり、友達の家の家畜の牛の糞置き場からミミズを探して餌にしてヤマメを釣ったり、野生児らしくなる。 初めての海外旅行は小学4年の夏休み、父と姉との韓国旅行。 「外国ってどんなところだろう!!」とわくわくして行ったものの韓国人と日本人の見分けがつかず店には馴染みのロッテのお菓子がたくさんあり、海外へのイメージが覆される。 中学1年の夏休みに姉と1か月ハワイ・ワイキキの日系人の親戚宅でホームステイ。親に怒られることもなく、好きな時間に起き、フルーツを食べ、ビーチに行き、夢のような時間を過ごす。「英語力」ではなく「ぐーたら力」を身につけて帰国。 高校1年、2年の夏休みにアメリカでホームステイ。英語が話せず、もどかしさを感じる。 「なんとかなるさ」で生きてきた中、 なんとかならなかった大学受験。 1年間の浪人生活。 早稲田大学政経学部政治学科入学。 勉強はそこそこに、バイトやサークルを掛け持ち。雑誌を発行したりジャーナリストの講演会を企画したりするサークルや街で大々的にかくれんぼをするサークル、障害児とのキャンプなどめまぐるしい日々を過ごす。 過労のため帯状疱疹にかかる。変な虫に刺されたと思い、ムヒを塗って耐え忍ぶが、どんどんひどくなり入院。絶対安静、1日3回の点滴。 「人間、むりしちゃだめだな。」ということを身をもって悟る。 それでも懲りず、いろんなものに手を出しながら学生生活を大大大大満喫。 バックパッカーデビューは大学1年の時。1人でインドのサイババに会いに行ったり、バングラデシュの無医村で診療の手伝いをしたり大学生活の4分の1を海外で過ごす。 クロアチアの難民キャンプで活動したことがきっかけで卒論のテーマは「ユーゴの民族紛争」。 無事、大学を4年で卒業。 就職するか海外のNGOに入るか迷った末、地元九州のマスコミの採用試験を受ける。 福岡のテレビ局に拾ってもらい、報道部に配属される。 殺人事件から裁判、災害、大事故などの取材やリポート、ドキュメンタリーの制作に明け暮れ、脇目もふらず脇毛もそらず「女性」であることを忘れていたなか 一緒に働いていたカメラマンのケンゾーと結婚までこぎつく。 家庭を顧みず家事は夫任せ、家では干物女となっていた記者9年目の夏、退職。 ケンゾーと世界旅行に出発。 | 経歴 経歴 経歴 | 女の子を待ち望んでいた両親のもとに三男として誕生。 (娘がほしくて父53歳、母45歳までがんばるも5人男兄弟でおわる) 中学時代、1人で自転車で福岡市から70キロ離れた北九州市に行く。着いたもののやることもなく帰る気力もなく、車で迎えにきてもらう。 県内一の公立進学校を受験するつもりが、痩せすぎによる気胸(肺が破れる)で受験できず。 2500人の巨大男子高、福大付属大濠高校入学。体操部のムキムキ男子からラブレターをもらうが5人男兄弟で育ったため、女の子へのあこがれを捨てきれず告白を断る。「来年こそ共学になるらしいぞ」という噂を信じて通い続ける。 (卒業19年後ようやく共学となる) 「自由になれる気がして」高校卒業後、早々と社会人に。 雑貨などの店舗経営会社で4年間営業や店長、バイヤーを経験。 社内旅行で初海外の香港に。カジノで千円使い億万長者の夢をあきらめる。 子どものころ見ていたテレビ番組「わくわく動物ランド」の影響で大の動物好きだったため、二十歳ぐらいからイグアナをペットとして飼い始める。なんとなくつけた名前は「ビリー・ジェファーソン」。買ったときは10センチ足らずのかわいいビリーは、好物のシュークリームを食べながら成長して1.5メートルほどに。ある日家に帰ると、母親が個人動物園に引き渡していて、突然のわかれに心を痛める。 25歳のとき、退職。 麻生電子ビジネス専門学校で映像を学び、番組制作プロダクションに入社。テレビカメラマンとなり、ロケでカナダやアメリカ、台湾、韓国に行く。 30歳になるころ、新人記者のイクエと出会い、交際スタート。 イクエがタバコ嫌いだったためあっさり禁煙する。 (イクエによるケンゾー改造計画が着々と始まっていた。) ご飯の炊き方も知らず、「九州男児は料理げなせんばい」と思っていたが、あっさりその信念を捨てる。イクエの口車にのせられて料理が趣味に。 バックパッカーデビューはハネムーン。野生動物に会いたくて、行き先はアフリカに決定。ケニアでライオンやシマウマ、キリンなどを間近で見て大興奮。 しかしタンザニアで結婚指輪を紛失。イクエの温情で離婚の危機を免れる。 イクエと退職を決断し辞表提出。 しかし突然気がかわったイクエに裏切られ、一人だけで退職するハメに。 主夫兼フリーカメラマンとなる。 東日本大震災発生。 イクエの紹介で国際ワークキャンプNGO「NICE」に参加。1年間福島・会津若松と岩手・陸前高田でボランティア活動。 イクエが2年越しにようやく退職。 念願の世界旅行に出発。 |
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小さいころ、お酒を飲んだ父がたまに話してくれたのが世界旅行の話。 1970年ごろ、大学を卒業した父は、世界旅行に行っていた。 船で日本からソ連に向かい、ヨーロッパに行き、アメリカ大陸へ進み、そして日本に戻る一人旅。 「今までで一番おいしかったのはシベリア鉄道の車内で食べたホカホカのドーナッツ」とか「お金がなくなってドイツのレストランでバイトしジャガイモの皮ばっかりむいていた」とか「入場料を払わずにディスコに入ったらバレて追いかけられてフェンスをよじのぼって逃げたけど警察につかまった」というちょっと危ない話や「ヨーロッパの女性といい感じになったけど公園で何回かデートして終わった」という淡いロマンスも。 父は世界旅行の話をたまにしかしなかったけど、わたしは目をらんらんにして聞いていた。 そして高校生になりバックパッカーだった沢木耕太郎の小説をもとにつくられた「深夜特急」のドラマを見た。 「いいなあ。わたしもやりたいなあ。」 さすがに女ではできないだろうと「あーーー、男に生まれたかった!!」と心から思ったものである。 髪はずっと長く、ほとんどワンピースしか着ず、スボンは1、2着しかもっていない「女の子」だった私。 バックパッカーへの憧れのいっぽう、あのでかいリュックを背負ってスニーカーを履いて薄汚いTシャツとズボンで旅をすることには大きな抵抗もあった。 でも大学1年のとき、ちょっとの勇気とバックパックを背負い、フィリピンを一人旅した。 親には「友達と行く」とウソをついて。 やってみて「女の子でもできるじゃん!」と、それからは旅をしまくった。 猿岩石の有吉が「海外旅行で人生観かわったというヤツは、日本でたいした経験をしてないんだよ」とテレビで言っていた。そう、その通り。 わたしが旅に行くのは「自分探し」でも「自分をかえる」ためでもない。 アジアを歩いていて感じるなんだかわからない心地よい懐かしさ。 みんなが動き始める朝の街の空気。 こどものころお祭りのときに感じたようなワクワクする活気ある夜。 言葉や文化が違ってもいっしょに現地の人と分かち合う至福の時間。 「あ~みんな生きてる」と感じる瞬間。そんなすべてがいとしくて大好きで。 それをパートナーといっしょに感じることができれば、すてきなことじゃないですか?? | 旅への思い 旅への思い 旅への思い | 3年近く前、仕事が終わったイクエが疲れた声で電話してきた。 「今日は飲まんとやってられん!飲み行こう」。 待ち合わせの本屋に行くとイクエが旅行ガイドブックコーナーにいた。目線の先には棚に並んだ『貧乏一人旅』『バックパッカー世界旅行』という本。イクエがつぶやいた。 「仕事辞めて、世界旅行しようかな。うん。行ってくるけんよろしく。」 「はあああああ!!俺は!?」 「るすばん・・・」 「はあああ~~????」 「だってケンゾーは行かんやろ。」 突然のイクエの思いつき発言。 けど、そんな夢物語も案外いいかも。 「俺も・・・行くよ・・・。」 イクエと知り合うまで、外国にはツアーか仕事でしか行ったことがなかった俺。交際中はイクエが年に一度の連休にバックパックで旅立つのを見て「俺は本当の旅をしたことがあるのかな~」とうらやましくも思っていた。 結婚後にバックパッカーの旅を経験。 「このバスはいったいどこへいくんだろうか」「きょうの宿はどうしよう」「あすはどこへ行こうか」 あふれるワクワクやドキドキ。 現地の人と一緒に食べるご飯のうまさ。多くの出会い、エピソード、ハプニング。これまでの旅行と比べものにならないほど記憶の残り方が違う。 日本に帰ってからも、行った国のニュースが気になり出会った人たちは元気でやってるかなーと考えたりする。 2年前、2人でキャンピングカーでタスマニアを旅した。一日に何十台ものキャンピングカーとすれ違った。オーストラリアでは退職後住んでいた家を売り払いキャンピングカーを買って旅しながら余生を楽しむ夫婦が多いのだという。 日本では40歳近い俺が仕事を辞めて、その後の人生計画もなく旅行することを批判する人も多いと思う。 社会の一員として一生懸命働いて家族を支えるのも人生。お金を稼げなくてもだれかのために身を捧げるのも人生。自分の趣味に生きるのも人生。 自分の信念は 「人生楽しんだもん勝ち」。 貧乏世界旅行を終えて、日本に戻ったらほんとうの貧乏生活が待っているかもしれない。 それでも世界を楽しみ倒したい。 そして心の底から叫びたい。 「地球に生まれてヨカッタ~!!」と。 |
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